茄子川村の金八他三名が林切りをしたということで、寛保三年(一七四三)三月、名古屋より御用方足軽衆一人、大代官手代丹羽吉左衛門・谷川兵助らが、茄子川に来て詮議を行った。最初四人を呼び調べ、その後百姓全部を呼出し事情を聴取した。今後は林を切らないし、庄屋・組頭に相背かない証文連判を取り、また四人を呼出し、分札に証文を取るべきと言われたとき、分札にては証文判しないといったので、手錠を打ち奉行は帰っていった。
また同年春、友右衛門林で伐(きり)取られたので、友右衛門が注進した。そこで、給知庄屋・組頭・組百姓壱人を呼出し、此度は、詮議をしないので、重ねて給知の百姓中も林を伐取るか、又は、猥かましいことはないよう百姓中へ申付けるようにと、和談の言渡しがあった(茄子川篠原家文書・諸事留)。
延享四年(一七四七)茄子川村成瀬友右衛門扣林と村方林にて盗伐されたので、役所へ庄屋・組頭呼出され、今後、持主のある山林にて切らないよう、若し此れ以後背く者があるときは、庄屋・組頭は勿論組合の者も、その過失はとがめられると連判状を差出している。その連判状は、「御蔵入百姓中無高共に 山村甚兵衛百姓中無高共に 千村平右衛門百姓中 無高共に そのあと久々里方庄屋・組頭・木曽方庄屋組頭」となっている(前同文書)。
文化四年(一八〇七)には、阿木村内の留山で、誰かが椹六本を盗伐し、桶木にして出そうとした所を枌杣に見付かり、注進された。そこで村中を吟味されたが遂にわからなかった。そこで、五人組が連判証文をかいてわびている事実もある。
このようにして、処罰としては、大変きびしいものもあった。しかし、刑罰は、地域・時代・内容によってまちまちであった。この様に当時は別に定められた「おきて」があったわけではなく不文律であったと考えられる。天保の頃から規定が設けられて罰は大変軽くなっている。