山林に対する規制の厳しかった木曽でも、その罰則については明示されたものがなく、不文律で先例によるところが多かったと考えられる。弘化二年(一八四五)一〇月初めて成文化されたのが、「木曽并三ケ村三浦山盗伐等御仕置定」である。
木曽并三ケ村三浦山盗伐等御仕置御定
一 御留山等ニ而盗伐致候者 頭 取
重追放
頭取ニ准候もの
中追放
同 類
牢舎三十日
[盗伐人之村方盗伐有之候地元村方] 庄屋 組頭
過料三貫文宛
但 全自分作事等ニ相用候為メ少分之分ハ 木曽谷中
[背人之村方地元之村方] 庄屋 組頭
過料壱貫文宛
一 御留山ニ而皮剝 枝打等 牢舎三十日
[背人之村方地元之村方] 庄屋 組頭
急度叱
一 明山ニ而御停止之木品等背伐致候者
頭 取
木曽谷中幷三ケ村追放
頭取ニ准候者
牢舎三十日
同 類
手錠三十日
[背人之村方地元之村方] 庄屋 組頭
過料壱貫文つゝ
但 全自分作事等ニ相用候為メ少分之者
牢舎三十日
[背人之村方地元之村方] 庄屋 組頭
急度叱
一 明山ニ而御停止之木品皮剝 枝打等 手鎖三十日
[背人之村方地元之村方] 庄屋 組頭
叱
一 盗伐・背伐共切株有之盗主等不相知節は 地元村方庄屋 組頭急度叱 壱ケ年ニ両度又ハ壱度ニ而も百本以上之節は過料銭壱貫文宛
但 皮剝 枝打等ハ何ケ度ニ而も急度叱
一 御留山等において盗伐之木品と乍存買取候者 牢舎三十日
一 盗伐・背伐之儀ハ不存共、出所不訂御停止之木品買取候者
手錠十五日
一 盗伐幷背伐之木品共所持致候得者 都而取揚可申事
一 重 中追放之もの夫々御構場之外 木曽谷中幷三ヶ村共塞之高田畑 家財共欠所可申付事
一 盗伐 背伐いたし候者共 及見聞訴出候得者御褒美左之通 下さるべし
壱本より拾本迠 弐貫文
拾本より五拾本迠 三貫文
五拾本より百本迠 五貫文
百本より以上 拾貫文
一 前頭盗伐 背伐少分之目当ハ 切株壱尺廻以下 数ハ拾本以下たるへき事
但 一向少分之類等ハ節ハ評義次第 皮剝 枝打之類之准候分も可有之事
切畑之儀 新規之場所ハ勿論切返し之場所たり共 向後必役所え相願 役所より上松御陣屋江打合せ上 場所立合見分無差支候ハ済口申渡筈
右之通可心得者也
(以下略) (徳川林政史研究所蔵)(川上村史)
この規定をみる限り、俗に「檜一本に首一つ」というような厳しいものではなかった。一番重い刑は追放より重いもので領外追放の重追放となっていた。