湯舟沢の出材の中で、特に見逃すことのできないのは、伊勢両神宮造替遷宮の折には湯舟沢山は、杣山(出材山)となっている。
伊勢神宮が二〇年毎に造替遷宮する制度がつくられてくるのは、天武天皇の時で、皇太神宮(内宮)神道山(伊勢国)、豊受神宮(外宮)は高倉山が杣山であった。その後、良材も尽きて、或はその他の理由によって、他山に材を求めるようになった。
木曽の良材が文献の上に現われてくるのは暦応二年(一三三九)で、その後美濃山が杣山となってくるのは、興国六年(貞和元年一三四五)からだと言われている。
美濃山で伊勢両神宮の遷宮の杣山になった歴史は古いが、何れの場所・出材規模・費用など細部に至っては不明の点が多い。江戸期に入ってからその全貌がはっきりしてくる。
木曽山の中でも、湯舟沢山が杣山になって来るのは、尾張領記録の安永六年(一七七七)十一月二日の条に、元禄一五年(一七〇二)初めて湯舟沢山より伐(きり)出し、その後享保七年(一七二二)、寛保二年(一七四二)、宝暦一二年(一七六二)とあり、湯舟沢山が大切な出材地となって来る。勿論湯舟沢山だけに限られることなく、周辺の山々からも伐出していることは当然である。湯舟沢山には御神木を清めたと伝えられる湯舟と称する淵がある。このように伊勢神宮とは関係が深かったようである。