寛文五年(一六六五)春、尾張徳川家は落合山で角木一万本を伐出すよう山村家に許可した。椹物も三万までは角木で出すよう命ぜられた。そこで山村家は山元に伐木を命じ、一一月始までに過半を伐出し、この御用木を川狩して木曽川を下すこととなった。この場合、出水のため下流へ材木が流出した折は、老中の指示で中津川材木同様に取扱うよう錦織奉行へ通達した(木曽山村家留帳)。
延享二年(一七四五)釜沢山の材木を入札で、木曽須原宿 市左衛門、長野村 孫三郎、赤河村 彦惣の三名で、運上金五千両余で引受け、一三か年にわたって材木を運び出した。しかし、落合村から依頼があって、口釜沢一洞を残しここを村方入用の葺板材木などに充てた。
釜沢の残りの山は、明和五年(一七六八)また御払山となり、飛驒国大古井村 伝十郎が運上金三八〇両で三か年で仕出した。しかしこれは、中途で運上金が凝滞(ぎょうたい)してしまい、山はお引掲げになった(塚田手鑑 落合郷土誌)。
山村甚兵衛、千村平右衛門相知行所の落合の山から、寛文一一年(一六七一)兼山の木主 佐橋吉右衛門、名古屋の問屋成田六右衛門、同清兵衛の商人が、ひば・さわら・檜・槇・もみ等の角材都合五〇五二本を伐採し、名古屋に送り、四六九両で売却し、その売上金の一五%(七一両一分余)が運上として、山村・千村両人の納付されることになっていた。その時の「寛文一一年 落合御材木名古屋仕切状」によって、伐木の分量、代金等をみると別表のようになる。
Ⅴ-15 落合村材木名古屋仕切(寛文一一年)
此御運上金 (その材木の買主は、八名の材木町の商人たちであった。)
七一両一分 銀一三・九(但し、一割半)両替 六〇匁替
久々利方 三五 一四、四、五
木曽方 三五 一四、四、五