天保九年(一八三八)三月一〇早暁、江戸城西丸の台所から出火し、宏壮な殿舎を悉く焼失した。直ちに、普請奉行等がきまり、再建工事が進められることになった。そのためまず用材調達のために、下調査が行われた。当然尾張領もお手伝いを命ぜられた。時の領主齋温は、進んで白鳥木場伐置き材で八万本を献上、その貯木で間に合わない場合は、木曽の「囲い山」の大材の立木を提供することを申出ている。そのため撰木・伐出しに幕府から、川路三左衛門(聖護)が随員と熱田白鳥(木曽材を集積する尾張領の直営貯木場)に来た。白鳥で撰木の結果再建御用向の上材は、一万本にすぎないことがわかった。不足分については伐出しのこともあるので、木曽・裏木曽の諸山の木調べのため熱田をたって、東濃・木曽へと調査に入って来た。今その関係分について足跡を辿ってみる。
閏四月二一日 井出小路山(加子母村)へ向って熱田出発(美濃太田宿)。
〃 二三日 中津川宿着(投宿)木曽川満水、渡河不能のため二五日から五月三日まで中津川に滞在して幕府方の会計事務を処理。
五月 四日 木曽川を渡り苗木領福地泊、翌五日付知着(泊)。
五月 六日 付知より井出小路山入り、特設の山小屋に入る。
五月七日~二一日 小屋に滞在、専ら伐木作業を巡視・督励、付知→加子母村(泊)→木曽三浦義見分。
五月二四日 加子母村より付知→福岡→苗木城下(泊)。
〃 二五日 苗木から木曽川を越え、中津川→落合→湯舟沢村(泊)。
〃 二六日 湯舟沢山見分、馬籠→妻籠→蘭(泊)→三留野、木曽谷見分。
六月一三日 裏木曽の川上山見分、川上村より井出小路山へ入り山小屋に滞在、伐木・運材作業の促進を図る。
六月三〇日 付知一泊、付知→(木曽川)→馬籠、中山道経由で江戸帰着。
このようにして調査、促進がはかられたが、実際には井出小路山の大材は間に合わなかったらしい(近世林業史の研究)。
この西丸再建についての地元としては、またどのような影響があったか「苗木明細記」には、
「木物の類は 山国殊に信州 木曽山に隣りたる地故 昔は松檜・椹・槇・槻・栗・其外共余程之大木有之しが星霜おしうつるに従ひ 追々伐木し 就中、天保九年江戸西丸炎上御用材に大木之類 社木迄も伐取候ひし故銘々の用木も行届かね様相成 迷惑するもの少なからずといへり」
とある。このように西丸炎上は苗木領へも多大な影響を与えていることがわかる。