湯舟沢の御免荷物

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木曽谷では、木曽山において白木六千駄が木曽の住民に下付された。この六千駄は各宿村へそれぞれ配当せられ、素木或は加工され製品として江戸や名古屋方面へ出荷された。しかもこの素木・製品の運送については凡て陸送で送られた。従ってこれは岡付(おかづけ)荷物ともいわれた。この六千駄の各宿村への配分については、木曽谷中約三〇か村あり、湯舟沢村へは四二駄、これを御免荷物という。
 その後、寛文四年(一六六四)の木曽山巡見以後、御免荷物については代木制約素木材料欠乏から、運上金の上納を命じたり、一部金子下付・樹種の変更等諸対応に迫られてきた。
 享保一四年(一七二九)に至って、再び三〇〇〇駄の切替代金一〇〇両の下付が復活され、岡付荷物の運上は、享保一二年(一七二七)より以後免除せられた。湯舟沢村においては、切替手形三二駄二分、代金一両六匁四分の割当てとなった。
 その後、延享二年(一七四五)諸調査の結果、今迄仕出していた岡付荷物の崩桶・葺板・杮(こけら)板を止め、岡付荷物三〇〇〇駄のうち一八九九駄を檜物材料として、奈良井他二か所へ、八七九駄半を三〇か所に下付することとなり、今迄各村共、檜物手形で貰っていたものを、一駄九匁の割で八七九駄一三一両三分銀一〇匁五分下付されることになった。従って湯舟沢村では、この時、岡付荷物の内代金にて、どの位受取ったか。檜物手形九駄五分であるので、代金一両一分、銀一〇匁五分毎年一一月中受取ることとなった。これより檜物製品の外の素木は移出されることがまったくなかった。湯舟沢村にこのように下付された白木・代金等については、どのように利用され、農民がどのような恩恵を受けたかについてははっきりしない。