葺板

972 ~ 974 / 1729ページ
「湯舟沢村惣山御留山ニ而屋根葺板仕出可申場所無御座 難渋仕候…」(天保一二年・丑年葺板山御免場所諸書絵図書上帳幷杭数相調・島田家文書)家屋用材については前述もしたが、葺板についても随分苦労をしたことが理解できる。
 享保一一年(一七二六)二月には百姓の願い出て、留山の内で檜類の根木(倒木)、末木・風折木端を使用し、葺板を仕出しすることが許された。その後も、享保一五年(一七三〇)四月、享保二〇年(一七三五)二月、元文四年(一七三九)四月、宝暦三年(一七五三)二月と相ついで願上げ、享保一二年(一七二七)同様許可されてきた。
 しかし、安永の頃(一七七二~一七八〇)願い出たが、留山の木を調べた所留山で伐り出す木が、板・榑・短物として仕出しているので、葺板にはできず、致し方なく寛政年中(一七八九~一八〇〇)まで控預り林で少しずつ伐り出してその用を足してきた。しかし預り林も家作木、造作木に利用してきたので、伐り尽し困るようになって来た。そこで、留山の中で無断で樅・松・栗・栂などの雑木を伐るものがあらわれるようになった。この事が天保六年(一八三五)の山改めとなり、留山の雑木が多数伐採されていることが露見してしまった。
 こうした状態の中で、さらに天保四年(一八三三)以来の凶作で家屋の修理もできず、加えて天保八年(一八三七)の多雨で屋根板は朽ち、相当困り果て天保九年(一八三八)遂に「御慈悲を以て 御留山之内ニて樅・栂・栗ニて毎歳五拾本ツヽ葺板ニ元伐御免被下置候様奉願上候」留山内で、樅・栂・栗の雑木(木口五寸以上)を毎年五〇本ずつ伐出す願書を、庄屋・組頭連署の上奉行所へ提出した。勿論留山で伐出すから、停止木等についての規制は厳重に守ることは勿論、出来るだけ預り林で充足して、どうしてもという時のみ留山で伐出す。山の管理については役人が十分していき、百姓にもできるだけ始末にしていくように指導する。若し願いの通り許可されれば、葺板仕出した所へはその木種を植林し、留山の木種が生立するよう十分心掛けていきたいと付加えている。
 この願い出は許可になり、湯舟沢村は留山の内で六か所が葺板仕出御免場所として認められ、天保一二年(一八四一)「葺板山御免場所請書絵図書上帳」を木曽材木役所に差出した。その仕出場所と留山との境の杭(くい)打ちについては一〇月一三日、尾州材木方(二名)福島方(三名)の立会にて境界を定め両者でそれぞれの杭を打った。
 その後も、安政六年(一八五九)にも「屋根葺板仕出御免場所絵図・書上帳」が同様奉行所へ差出されているが、御免場所は天保一二年(一八四一)と全く同一である。この様にして留山の一部が農民に解放されるようになった。

Ⅴ-18 湯舟沢村葺山御免場所絵図


Ⅴ-19 湯舟沢葺板仕出御免場所帳(抜)