耕地の少ない山村にあっては、食糧の補充は、切畑という畑作に頼っていたことがわかる。切畑とは、雑木の生立っている原野の雑木・柴草を刈り、またはこれを焼いて畑とし、焼いた灰を肥料として播種する方法で、原始的な農業形態であり、従来は山村ではごくふつうに見られたものであった。従って、近世にはどの地方でも行われていたことは容易に想像されるが、その資料の残存するところは少ないので、神坂にその例をとってみることにする。
湯舟沢村では、元来切畑が行われていたことは、諸記録によって想像されるが、その規模等については判然としない。切畑の起源については、はっきりしないが、天和四年(一六八四)の手形の中に野火・切畑について一項があるので、時期的にはそれ以前から行われていたことがわかる。この手形の中の切畑に関しては、
① 切畑として焼く時は、畑主からその村の百姓を互に頼み、小さい畑なら二〇人、大きい畑なら三〇人、まず肝煎に相届け指図を受ける。肝煎は畑主を呼んで、その通りの人数がおって、傍に火が移らぬようにして焼く。
② 草山や切畑を焼くとき肝煎へも届けず、内緒にて五~七人で焼くとき、傍に火が移らなくとも本人は勿論のこと、妻子も籠舎にし、その上木曽中永代追放となり、頼まれた百姓も過怠籠舎となる。
③ 本人より肝煎へ届けて肝煎が沙汰をせず、又人数も確かめず少く出し、組頭をつけなかった時は、どんなおとがめでも受ける。
④ 巣鷹山や用木山へ程近い所は、肝煎や組頭がよく吟味し、切畑をさせない(島田家文書)。
このように切畑は庄屋への願出によって許可されていたようであるが、山林保護の立場で考えると山火事の原因となるから、森林の多い地方では、管理上から何かと制約が加えられるようになった。尾張領では何回か巡視を行ったのちに、巣山・留山付近では切畑をすることを禁止されていたが、その後宝永二年(一七〇五)に至って、巣山・留山の遠近にかかわらず切畑は一切届出を行う様に指示された(宝永二年・御法度覚書)。
しかし、これも仲々励行できなかったので、山林保護の立場から、享保年間にはいってきつい制約が加えられるようになり、享保六年(一七二一)には第四回巡見が行われ、その結果、切畑についてさらに堅い制約が加えられるようになった(谷中触状留)。このように厳重な制限を受けたのではと、谷中庄屋・組頭連署の上で、切畑については従来通りになるように嘆願をしたが受入れられなかった。それのみか、享保八年(一七二三)秋には制限がさらに厳しくなり、即ち新規の場所は絶対にこれを停止し、たとえ前に切畑であった場所も、樹木が繁茂している所は新規同様であると認めることとした。これに対して木曽谷中の村々は、切畑禁止が痛切に食糧問題に影響する所があったため、重大事件として享保九年(一七二四)嘆願を行うこととなった。しかし、尾張徳川家の態度は強硬であった。
耕地の少ない農村においては、食糧確保の上で切畑という農業形態は必要な手段であった。前述した天和四年(一六八四)の「指上ケ申一札之事」(野火御巣鷹手形帳)によって、切畑の作り方については分かったが、実際の経営規模についてははっきりしない。切畑は灰が唯一の肥料であるので、長い期間作っても収穫はあがらない。従って場所を度々変更する必要が伴う。有効期間を経過した切畑は捨てられ、そして数年乃至十数年も経過すると再び雑木・雑草の原野となる。ここで再びこの地を切畑にする。このように一度切畑した場所を再度切畑した所は、特に切返し畑と呼ばれた。しかし、限定された土地内であるので、切畑の循環も早く、地力回復には十分ではなかったと考えられる。作物としては、多くは、そば・粟(あわ)・稗(ひえ)・大豆といったような種類が植付けられていたと思われる。また切畑を開くには二通りの時期があったようである。その一つは、夏伐りといって土用に入って三・四日目に伐り、三日程乾燥させて焼く仕方と、他には秋伐りといって、夏切りした切畑の作物を食い荒す動物を防ぐため、近所に小さな小屋掛けをして、昼夜番をしながらその片手間に其付近を伐払い、これを翌年の三月頃また雪のあるうちに焼くという仕方である。