水運による方法についてみると、伐採して散在している木材を谷間に集めて、まず、谷からおろす作業(小谷狩)を行い、このとき谷に水があれば、その水を溜め、その水の力を借りて谷からおろし、木を川へ出す(川出し)。川では堰のようなものを各所に作り、水を溜めて木を流す(大川狩)。やがて木曽川にはいる。木曽川では錦織(八百津町)まで、それぞれ管流(一本流し、バラ狩りともいわれる)され、その錦織の綱場において、初めて正規の筏に編束され、兼山までは一乗の筏を二人で操作して下し、兼山・犬山間は一乗を一人で乗り下げる。犬山で引渡された筏は、犬山の筏夫によって川下げられるが、犬山では錦織からの「上川筏」二乗をついで一乗とし、一人の筏夫がそれを円城寺まで乗り造げる。円城寺から終点までの流送は、三〇~五〇乗を繫いで編成された筏材団により、一~二艘の川船と数人の筏士が一材用の操作にあたった。そして河口の桑名や熱田白鳥へ流送された(近世林業史の研究)。
Ⅴ-20 木曽川の概念図(「近世林業史の研究」より)