木曽川運材

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水運の陸運に比べての長所は、運賃の割安・大量材・長大材の運送が可能である点があがる。反面、輸送日数の長期化、輸送中の流失等の短所もある。また輸送に伴う河川の開発、改修或は技術も水運の発達の重要な要因である。こうした点からみて、木曽川支流の各川から、本格的な木材流送が可能になるのは概ね慶長五年(一六〇〇)以降と見て大差ないようである。これを裏付ける事実としては、寛永の初年に、江戸城御台所虹梁の長さ一七間、末口四尺の大棒が湯舟沢山から採運されていることから想像される。こうした運材技術の躍進については、木曽における木材商人角倉氏の河川開発を伴う運材技術の導入が貢献をしていると考えられる(角倉与一と木曽山・所三男著)。
 水運による方法についてみると、伐採して散在している木材を谷間に集めて、まず、谷からおろす作業(小谷狩)を行い、このとき谷に水があれば、その水を溜め、その水の力を借りて谷からおろし、木を川へ出す(川出し)。川では堰のようなものを各所に作り、水を溜めて木を流す(大川狩)。やがて木曽川にはいる。木曽川では錦織(八百津町)まで、それぞれ管流(一本流し、バラ狩りともいわれる)され、その錦織の綱場において、初めて正規の筏に編束され、兼山までは一乗の筏を二人で操作して下し、兼山・犬山間は一乗を一人で乗り下げる。犬山で引渡された筏は、犬山の筏夫によって川下げられるが、犬山では錦織からの「上川筏」二乗をついで一乗とし、一人の筏夫がそれを円城寺まで乗り造げる。円城寺から終点までの流送は、三〇~五〇乗を繫いで編成された筏材団により、一~二艘の川船と数人の筏士が一材用の操作にあたった。そして河口の桑名や熱田白鳥へ流送された(近世林業史の研究)。

Ⅴ-20 木曽川の概念図(「近世林業史の研究」より)