巣山の制は、いつ頃から始ったかはっきりしないが、普及をみるのは江戸期にはいってからであり、いずれの領内にもこの制はしかれていた。湯舟沢村を含む木曽の巣山については、山村氏が木曽を支配するようになって、家康は山村氏に木曽の巣鷹と木曽馬の何れかを与えようとしたら、山村氏は馬を望んだとかで、家康は巣鷹を献上する様に命じたという挿話が伝っている。これらのことからも考えて、江戸の初期頃から巣山の制のあったことが推察できる。
中津川に巣山が何か所位設けられていたかについては不明で、記録的にはっきりしているのは湯舟沢村である。湯舟沢村は別表のように四か所に巣山があり、巣山では、木は一切伐採することができなかった。しかし、巣山であっても、伊勢神宮の神材の折には、伐採が行われた事がうかがわれる。また、この巣山の指定、その後の変遷等については、はっきりしない。
Ⅴ-21 湯舟沢村の巣山(延享二年書上げ写より)
湯舟沢村以外では、落合村にあったことが記録に残っている。その巣山は、通称梵天山といわれているところである。新茶屋にあって、山林面積は一〇四町一四畝一六歩であり、その監視保護のための役所は、大久手、伊雑神社付近にあり伐採と鷹の巣の保護にあたった。日比野村には「新撰美濃志」の中に城下の北にありて鷂を産すとある。