尾張領の巣山の管理についてみると、下された巣鷹は、慶長頃はすべて幕府へ収められた。しかし、元和元年(一六一五)木曽が尾張領に属してからは、すべて尾張へ出し、一部は幕府へ、一部は尾張徳川家に供せられた。
毎年春の彼岸頃になると尾張から巣鷹管理のため御鷹奉行が巡遣された。寛永一七年(一六四〇)までは、木曽において妻籠外二か所に駐在した。しかし、寛永一八年(一六四一)になると、中津川一か所に変更された。其の後、山村氏の要望もあって、承応三年(一六五四)より、御鷹匠衆が三人木曽に出張し、妻籠他一か所に駐在した。
その後綱吉殺生の禁制により、一時的に放鷹も禁止されたが、享保三年(一七一八)また公儀献上の復活となった。享保一五年(一七三〇)には、木曽藪原に御鷹匠役所を置いて、毎年春、尾張表より数名の役人が出張し、巣鷹一切の事務を監掌し、以後明治まで存続した。