巣下し

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将軍綱吉の時、殺生の禁制が出た折には、放鷹も一時的に禁止された。「例年被差上候 御巣鷹自来年御用無御座候間 巣鷹山番人等被申付候儀 可被致無用之旨申達候様にと 江戸より申来候 為其如此御座候以上」(岐蘇古今沿革史)元禄六年(一六九三)一二月山村氏は、以上の様な巣鷹献上無用、巣山番人廃止の通知に接した。
 その後宝永八年(正徳元年)(一七一一)三月尾張徳川家から、公儀御代替について放鷹が復活されるだろうから、試飼してみたいので内々差出すようにとの内命があった。しかし長い間中絶していたから、巣主も不案内であると遠慮申上げたが、なりあいでよいということで一応の結末がついた。
 正徳六年(享保元年)(一七一六)四月、鷹場御免の通知があり、享保二年二月巣鷹御用の仰付けがあった。湯舟沢山より五月一一日一巣下し、鷹四居。上松山より一巣三居を下し、それを尾張徳川家へ差出した。享保三年(一七一八)また公儀献上が復活となった。