こういう形で発生し、争いが拡大していくのであるから、山論は一定の裁決、仲裁決定となるまでには最低二か年を要しているようにみえる。この一件の裁決年を山論の年として、村対村、村対小村の争いで分っている主なものをあげると、次のようである。
飯沼阿木山論 寛文 五年 (一六六五)
阿木丸山公事 延宝 五年 (一六七七)
飯沼東野山論 元禄一二年 (一六九九)
手金野千旦林山論 正徳 二年 (一七一二)
茄子川東野山論 享保 三年 (一七一八)
阿木飯沼山論 享保一〇年 (一七二五)
落合馬籠山論 享保一二年 (一七二七)
阿木東野山論 享保一六年 (一七三一)
千旦林茄子川山論 宝暦 四年 (一七五四)
手金野千旦林山論 安永 六年 (一七七七)
千旦林茄子川山論 安永 六年 (一七七七)
茄子川大井山論 安永 九年 (一七八〇)
手金野千旦林山論 寛政一二年 (一八〇〇)
飯沼大野山論 文化 七年 (一八一〇)
千旦林茄子川山論 天保 五年 (一八三四)
阿木本郷青野山論 弘化 二年 (一八四五)
同 安政 元年 (一八五四)
年表が示すように、江戸時代に入ってから、村と村が山境を争ったのは、中津川市関係分で、判明している限りでは寛文三~五年にかけての飯沼村と阿木村の、龍泉寺山一帯についての争いが最初である。それでは、何故、寛文期頃から、山論が発生し始めたか、考えなければならない。