山論が発生する直接または間接の理由には、その村対相手村の地域感情、人間関係、さらに支配関係など複雑な事情が混在しているのが普通であるが、大きくまとめて原因を探ると次のように考えられる。
(1) 近世初めの建築ブームで過伐した山に対して、領主が保護対策をとりはじめ、領主直轄林(御林、留山など)を増加させたことが原因で、残された山に対して、村の占有意欲を高めたこと。
例えば阿木村と東野村の山論(享保一六年)の時、青野村申出書の一部に「御留山に仰付置かれ候には、必至と手詰り迷惑至極に存じ奉り候」とあって、御留山について「入込木草取申間敷旨」とある。今まで阿木村枝郷青野村の「手山」として、自由に立入って生活に利用してきた場所に入山できなくなり、利用できる山林原野が減少することになり、それだけに残された惣山に対する占有意欲が強くなって、村対村で「山林原野から受ける利益」をめぐって、争いの形は山境、入会権などと違うけれども、山論の発生となったのであろう。
(2) 江戸時代に入って、五〇年余をへた寛文期になると、新田開発が盛んになった。例えば広岡新田は、慶長一三年(一六〇八)の申し渡し、「滝ヶ沢口より井露ヶ峯のししがき迠の間、この場所勝手次第開発してよい」が出発であるが、これが飯沼と阿木の山論の原因の一つになって、寛文、元禄、享保と争いが起っている。
また阿木村枝郷青野村が開発の時に「井戸洞」と呼ぶところより用水路を作ったが、井戸洞が青野村の用水の洞として、水源確保が第一であり、青野村は専有を主張するようになり、これを享保期の東野村との山論で、理由の一つに挙げている。
このように新田開発の増加と共に利用できる山林原野が減少したことと、新田として、新しく山の利用を主張することが、山論発生につながって行くことがあげられよう。