山論は、その村が当局に提出した口上書、それに対する相手村の返答書などによって、その大略を知ることが出来るが、中津川市関係の村の場合をみると
(1) ある村が、その惣山に隣村の百姓が入って笹を刈っていたので、聞くと自分たちの村の山だというが、それは違いで当村の惣山であるというように山の境を争う山論。
山境について、元禄一二年(一六九九)の東野村と飯沼村が中尾山境を争ったときには「峯通り」が境だと裁決されている。天明七年(一七八七)中野、永田、正家三か村入会山と中飯羽間村が争った時には「川筋」境を三村方は挙げている。
享保一六年(一七三一)裁決の東野村と阿木村の山境争いで、東野側は「その村々へ水流れ候は その村の山」と主張している。このように「峯筋」「川筋」「川の流域」などが山境となっている場合が多いが、自分たちの村の惣山だと主張する証拠には、手前村で世話した浮浪人の墓があるとか、今は荒れているが手前村の者が開いた新田(この場合は、たいてい人の名前=与作新田、与重新田=<広岡の場合>享保の阿木・飯沼の山論)があるとか、寺社の棟札、正保二年(一六四五)の絵図面、元禄一三年(一七〇〇)の絵図面などを挙げている。いずれにしても、慣習できているものについて、証拠をあげるのであるから、無理な点がある。
(2)山の所属は、他村でかまわないが、往古からの慣習として、他村の山へ秣(まぐさ)、柴草を採取にはいることができる慣習の入会山の争いが、主となっている山論。(例、阿木本郷と枝村青野村の山論)
(3)山論の始まりで、一方は入会山、他方は山境の確定を強く主張していたが、隣村役人中が仲裁に入って裁定(合意書)した事項に入会山を位置づけている場合がある。天保六年(一八三五)裁定の千旦林村と茄子川村の山論はこれにあたる。このように「山境」と「入会」が混在した山論もある。
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