阿木村と飯沼村の山論

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両村の山論のはじまりは、寛文三年(一六六三)で、中津川市関係分でもっとも古い。寛文五年に岩村町役人仲裁仰付までは、すでに触れた。それ以後、山論再発の享保九年(一七二四)までの主な動きは次の通り。
 
・寛文 七年(一六六七)竜泉寺再建、代官小栗長兵衛、阿木村郷中でつくる。
・天和 三年(一六八三)龍泉寺森、木数代金六〇(ママ)両、大井村忠左衛門、永田村次左衛門請。
・貞享 元年(一六八四)丹羽長門守、龍泉寺参詣、
・貞享 三年(一六八六)龍泉寺堂、材木注文、木数一三〇本、板五〇間、代官鈴木惣左衛門、朴沢より前沢にてくださる。
請は阿木村寺領弥兵衛(金五両八六〇文)、堂立請弥兵衛。
・元禄 元年(一六八八)旧道御改。
田衣の田をのぼり、大柳洞口を北へ通り、古馬平越、血洗よりひえだれを龍泉寺へのぼり…。(略)
・元禄 四年(一六九一)飯沼村百姓と阿木村百姓、笹刈をめぐって争う。
・元禄一〇年(一六九七)川上道、お世ほ坂替り申候、阿木村人夫九〇人、広岡一〇人、川上六〇人、人足一人に付、七合五勺扶持くださる。阿木村は扶持なし。
・元禄一六年(一七〇三)八月一日、阿木、飯沼両村、広岡新田の所属をめぐって争ったが、広岡新田は阿木村枝郷となる。
・元禄一七年(一七〇四)宝永元年、龍泉寺山なこら沢にて、飯沼、阿木両村、薪とりで争う。
・享保 九年(一七二四)竜泉寺山で、飯沼村百姓に阿木村百姓、鎌をとられる(龍泉寺山代々譲日記 広岡村今井氏控)。

 この享保九年は「ももそれ山」が争論の場であり、発生は同年七月二二日である。発生より仰渡しが出るまでの動きは、次のようである。
 
享保九年(一七二四)
  八月一〇日 飯沼村訴状差出し。
  八月一一日 阿木村へ返答書仰付。
  八月二一日 阿木村返答書差出し。
  一〇月二四日両村枝郷共に双方立合の絵図仰付。
享保一〇年(一七二五)
  正月二五日 絵図差上げ。
  正月一五日~一八日 飯沼村御倹儀。
  正月一九日~二四日 阿木村御倹儀。
  二月 二日 阿木村枝郷御倹儀。
  二月 五日 両村対決被仰付。
  二月一一日 論山御見廻り。
  二月一六日 御見分。
 
 この後、二月二八日に仰渡しがくだされた。その全文は次の通り、
 
(飯沼村 阿木村)江被仰渡候趣如左
 去辰(享保九年)之七月廿二日ニ飯沼村者共ももすれ山え草刈ニ参候所 阿木村より右場所へ馬四拾疋余ニテ大勢入込草苅候故 飯沼より八人出合とがめ口口雑言申掛候間 阿木村之者共之鎌弐挺飯沼村へ取候所 阿木村より右馬方之外ニ五六拾人計棒を持罷越右八人ヲ取廻シ打候得共手ぶら故逃候所ニ新六郎下男久七郎強うたれ迷惑仕候由 同月廿五日飯沼村より以書付□注進 幷右久七郎血ヲ吐危躰故川口自軒ヲ相頼療法を請 重キ様子之旨共節相聞候 就其八月十日飯沼村より訴状指出し古来より大道上阿木村と山堺ハこいたを南之峰切より松沢ほこら沢迄飯沼村山ニテの所 寛文四辰之年阿木村より山論申掛入相可申と申候故 無是非公事ニ取結候処 岩村町役人ニ扱候様ニと被仰付扱候得共飯沼村ニテ扱請不申候故 扱きらい申候 其後前々之通 薪伐来候処元禄十七申の年二月阿木村より大勢参飯沼村より伐置候薪取廻之妨(さまたげ)をいたし 大道上ハ論所ニ候得共大道下之分ハ少も出入無之所ニ此度阿木村より不存寄義被仕掛迷惑至極ニ奉存候段申立候ニ付 阿木村へ返答書申付候所 大道上之儀ハ不及申東野村と飯沼山堺より広岡新田草苅場と申所迄横堺道通りひへ田尻よりは押の荷場 片草の荷場并大くて吹上平之下之横井筋広岡新田草苅場迄飯沼村 阿木村山論ニテ御座候所 先年飯沼村より争論申掛 岩村役人共入相ニ取扱候得共 阿木村百姓共合点不仕旨申立候付テ去十月廿四日立合絵図申付 当正月十五日ニ認指出候間 同日より二月五日迄当村幷双方枝郷大野村広岡新田召出遂僉儀対決を為仕候得共 双方共たしか成証拠証類無之 その上阿木村ハ右の通り 去七月廿二日飯沼村共逃候を追掛久七郎を理不尽ニつよく打擲仕剰支(あまつさえ)配御代官山奉行注進も不仕 我まゝ成仕方をもっての外不埓不届之儀共有之 飯沼村者共も不埓不届有之双方共ニ段々遂僉儀の所 申分ケ無之 此上ハ何分ニ被仰付候共可申上様無御座之旨双方数通口上書指出シ候付テ 右之場所御役人共遂見分候所 双方共ニ不届不埓之義共弥々(やや)相見へ候条 此上厳ク可令僉儀候得共 存寄有之故先指延置シ 右山論ハ丹羽式部少輔様御代六捨弐年以前ニも申立ニ付テ当町之役人共扱ニ被仰付候得共相済不申扱流々(ながれながれ)罷成有之趣ニ双方より由候得共丹羽様御代も数十年その通ニテ打過此方様御代被ニ為成候テも弐拾三年相済来と所去秋より致争論 その上百姓共ニ不似合強勢我侭(わがまま)成仕方不届至極ニ候得共裁許先当より指延置参重テ裁許申付候迄山之儀ハ鎌当も相止 六拾弐年以手より去年迄致来候様ニ可仕候 若此上双方共ニ強勢理不尽之仕方少も有之ニテハ倹儀之上越度ニ被申付候条 双方共ニ急度相慎可申候 以上
  暢二月廿八日
右山論之義追テ御裁許被仰付迄ハ双方只今迄之通ニ可仕由委細被渡奉畏 急度相守申候 若相背少ニテも強勢理不尽之成義仕候ハ何分之曲事ニも可致仰付之為 その一札指上申所如件
 享保十乙巳年二月廿八日
   飯沼村     阿木村枝郷とも
    庄屋以下     庄屋以下
    村役人名     村役人名  (広岡鷹見家文書)
 
 寛文年中より 享保九年までに「来候様ニ可仕候……」で両村とも強勢理不尽之仕方をしてはいけないというだけで改めての裁許はしていない。