手金野村と千旦林村の山論

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この両村の山論は宝永四年(一七〇七)に始まり、正徳二年(一七一二)に合意された深沢洞の所属をめぐる争いで、千旦林の三百石方(山村八郎左衛門)がでてきて、千旦林村には山絵図があるが、手金野村にないとはどうしてかと、叱ったといわれるもので、この深沢洞が千旦林の留山か、手金野の惣山かをめぐっての山論であった。
 安永六年(一七七七)にもあった。これは千旦林村と茄子川村、千旦林村と手金野村というように、千旦林村とその近村の山論で、駒場村庄屋儀右衛門らが山村氏、千村氏より内済取扱い方を仰付けられているが、山論の場所は鉾平である。
 寛政一二年(一八〇〇)に、茄子川村役人が仲裁に入っておさめた山論で 場所については「此度おぼこ平の内枯樅山 千旦林村と山境の儀 去年来彼是論に及び……」(吉田家文書)とあるように鉾平の山境をめぐる争いであった。茄子川村役人が仲裁に入って境塚一五か所をつくったと、次のようである。
 
     一札請取之事
 其御村千旦林村と鉾平 今般山論出来ニ付隣村の儀難拾置 内済取掛候処 双方早速御納得事済罷成 御同意大慶に付 証文通境塚十五ヶ所築之候上は向後□□彼是□度之義無御座候 依之受取書 如此御座候 以上
 寛政十二年     茄子川村御蔵入庄屋  (尾張蔵入)
               武 助 印
           同村釜戸御領庄屋  (馬場方旗本)
               嘉兵衛 印
           同村木曾御領庄屋  (山村方)
              長八郎 印
           同村久々利御領庄屋
              惣 吉 印
 手金野村御庄屋
    利兵衛殿(以下村役人名)        (吉田家文書)
 
 この一五か所の塚について、内済の一札(吉田家文書)では「三郷(茄子川、千旦林、手金野)立合境目 それぞれ相調べ 双方納得の上三ツ塚より枯樅(もみ)平に生立候樅木江見通し致し それより峯通りに境相定 伝作荷場を下る所より根通江相下り無水峰八分通境塚三か所それより上江拾弐ヶ所 これを築き候」とあって、千旦林村と手金野村の境をきめるのに、茄子川を含めた三郷の立会境目を同時にあきらかにしている。