茄子川村と千旦林村の山論

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千旦林村は 隣村である茄子川村、手金野村との境について、
 茄子川村と境 往還通(中山道)字坂本の細道 これより南へ殿の鳥屋下三つ石、かや落し鉾(ぼこ)平の三つ石 西横川筋、あせぼ、トベヨソ峯通三ツ塚より一五か所古塚あり、手金野村と境 古塚より小門沢、弓引峯通 深沢洞通それより往還通り字小石塚まで、としている。
 この境については正保二年(一六四五)の絵図面にあるし、寛政一二年(一八〇〇)の手金野村と千旦林村の山論のとき茄子川村が仲裁に入って 三村の境から手金野村境は確認したとしていた。ところがこの千旦林村惣山のうち「鉾(ぼこ)平」一帯の笹草刈取りをめぐって山論がはじまった。
 鉾平の千旦林村惣山に対して、茄子川村は入会山とし、千旦林村は、そういうことは全くないという。茄子川村の千旦林村惣山に対する入会権をめぐって山論となった。
 文政元年(一八一八)頃に笹草山口明は、草生の宜(よろしき)時節を見合って、一緒に山口明けをしては、どうかと茄子川村から千旦林村へ申し込みがあり、そのような状態がつづいていたようである。
 ところが天保四年(一八三三)の山の口明について 茄子川村は「今年は此方(茄子川)持山の分は残おき 其村方(千旦林)持山の分ばかり 入会山にいたし 六月廿七日口明罷登り申度旨」(山論始末覚幸脇家文書)を千旦林村に告げてきた。
 実際に二七日には(前日廿六日に笹刈にすでに入山していた)、千旦林村二〇名、馬一匹、鉾平へ草刈りにいくと、茄子川村は一〇〇名に馬六〇匹程入っていたという。茄子川村の百姓は「自然と入会山の様に心得 当村(千旦林)にて笹草刈山明後は、勝手次第入込笹苅来申候」(同幸脇家文書)とあるように、茄子川村は入会山と受取っているし、千旦林村にしては、茄子川村は自分の持山の笹は残しておいて、千旦林村持山の笹を刈りに入られては、迷惑至極ということで両村村役人らの懸合いが始まった。
 同年七月二日には、千旦林村百姓金之助外九名がトベョソ(地名)で、茄子川村百姓九七以下六〇余人に囲まれて、馬鞍九つをとられるという事件もおき、山境争いに勢いが加わった。事が大きくなっていくことを心配した千旦林村大林寺和尚と、茄子川村源長寺和尚は、入会を認めた内済和談に努力したが、千旦林村山内に茄子川の入会を認めるということは、とても出来ない「双方行違い 内済不行届」とまとまらなかった。この二か寺に東野村の宗久寺を入れて、三か寺和尚による和談成立の努力がなされたが、千旦林村は「往古より全く 千旦林の山で 今般入会になって 大郷の茄子川より年々入込んで木草を刈って 山を荒されたら 前山沢水相減じて 山水懸りの御田所の養い方も不行届になってしまい 亡田にもなる恐れがあり 入会山のことは聞き入れられない」(山論始末覚幸脇家文書)と主張をつづけた。
 両村の主張の根拠は次のようである。
 茄子川村の場合は、享保三年(一七一八)の東野村との山論で、幕府評定所の裁許を受けて、山境が確定したが、その時の山絵図に千旦林山への入会が記入されていたというのである。これは幕府司法の最高裁許であり権威がある。この絵図つくりの立会いは、勿論見たこともないと千旦林村側は言い張るが、知行主の山村、千村、尾張太田代官所もどうすることもできなかったようである。
 千旦林村の場合は 入会山でない証拠として前述の正保の絵図の他に、次のようなことをあげている。
(1) 宝暦四年(一七五四) ほこ平にて茄子川村と千旦林村山論があり、両村共手疵負者がでる程六ケ敷かったが、隣村庄屋衆の取扱にて相済になっていること。
(2) 安永四年(一七七五) 千旦林村手山分けで売券があり、それに境目がでていること。
(3) 安永六年(一七七七) ほこ平にて茄子川村と千旦林村の山論となり 大分六ケ敷かったが、この筋も隣村庄屋中の取扱いにて相済んでいること。
(4) 天明六年(一七八六) 十月に久々利方知行所の御蔵普請にて、西ヶ洞というところから駒木板一二〇〇〇枚庄屋佐右衛門仕出して、駒場村御蔵(久々利方御蔵)葺替につかった時、久々利知行主(千村平右衛門)より千旦林村へ代金をくださった。
  これも当村の山であるから下さったのであって、慥なる証拠であること。
(5) 寛政元年(一七八九) 十月 中津川代官所よりの下命で、川上村でつかう白口藤を千旦林村内門沢より笹洞の内で出したこと。
(6) 寛政一二年(一八〇〇) 手金野村と千旦林村ぼこ平で山論できた時、茄子川村庄屋中取扱で、山境を立て境塚一五か所築立両村相済となった。その山論中入用高は五八貫六七四文 これは千旦林村内で高割で負担して差出した。もし茄子川村と入会山なら、この用金を茄子川村よりも割合金として出しているはずだ。また 茄子川村役人衆へ取扱いのお礼として「酒さかな代」をはらっている。入会山ならお礼は毛頭必要のないことだ(当村惣山往古より慥なる証拠覚幸脇家文書)。
 以上、細かく証拠をあげて、茄子川村と入会山でないことをあげている。
 天保四年(一八三三)九月 千旦林村は裁許絵図の通り、茄子川村申条相立候はば、貧乏百姓がさらに劣り、大切な田畑共肥料作りも行き届かなくなり、検地帳の町反の通りの定免納米の皆済ができなくなる。
 と千旦林村の知行主であるところの山村氏(木曽方)、千村氏(久々利方)、山村八郎左衛門(三百石方)の三所代官へ訴えでたが、幕府裁許の絵図面の前にはどうしようもなかった。
 天保五年(一八三四)二月 千旦林村は、茄子川入会山は認められないと、尾張太田代官所へ訴えでたが、中津川村庄屋肥田九郎兵衛、大井宿問屋林良左衛門、伏見村庄屋加納市右衛門が仲裁を命ぜられた。
 
  差上申済口証文之事
 一千旦林村惣庄屋初之茄子川村庄屋初より者共相手取山境出入 御訴訟申上候付 双方被召出一ト通 御吟味之上相手方え返答被仰付候処右論所鉾平前平之儀は茄子川村山論之節 御裁許之御絵図面之内ニ有之前々より両村入会ニ仕来候旨等 御答申上候付 尚又訴訟方え再返答被仰付 千旦林村よりも古絵図並書類等品々証拠之旨申立彼是行違候処 右之趣一々御吟味之儀ハ不容易品ニより 双方も難渋迷惑之筋にも可相成ニ付 何れにも内輪おいて夫々勘弁筋申合内熟可仕旨 夫々付中津川庄屋肥田九郎兵衛 大井宿問屋林良左衛門 伏見村庄屋加納市右衛門共立入方可被仰付候間 右之者共初篤と申合熟済仕旨 御日限を以被仰渡之趣奉畏今般 御陣屋許え罷出段 申合之上熟談内済相整申候趣意左ニ奉申上候
 一鉾平並前平共是迄之通両村入会
 但茄子川村之儀笹草払底之村柄故鉾平之分毎年四月より九月迄 千旦林村よりは不立入其余十月より三月迠六ヶ月之間ハ千旦林村両村立入之答
 一千旦林村之儀ハ木草払底之村方ニ付 前平之分毎年九月より翌年五月迄 茄子川村分ハ不立入 其余六月より八月迄三ヶ月之間両村立入之答

  右之通ニて双方納得熟談内済相整 別紙写之通証文等為取替事済仕偏 御威光と難有仕合奉存候 然上ハ右一件ニ付重テ 双方より御難ケ間敷儀毛頭申上間敷候為後証訴答並立入方共連印済口証文差上申所如件
   天保五年午七月 訴訟方
        恵那郡千旦林村
        山村五郎兵衛様  (三百石方)
         組庄屋惣庄屋兼
          市郎右衛門 印
         同所 組頭
          甚右衛門  印
         同所 組頭
          新  吉  印
        千村平右衛門様  (久々利方)
         組庄屋
          儀兵衛   印
         同所組頭
          清兵衛   印
        山村甚兵衛様  (木曾方)
         組庄屋
          惣右衛門  印
         同所
          儀右衛門  印
         同所組頭
          与右衛門  印
         百姓惣代
          新兵衛   印
        相手方
         同郡
         茄子川村惣庄屋
          光岡文助  印
         同所組頭
          佐左衛門  印
         同所
          利左エ門  印
        山村甚兵衛様  (木曾方)
         組庄屋
          助右衛門  印
         同所組頭
          善右衛門  印
        千村平右衛門様  (久々利方)
         組庄屋
          傳右衛門  印
         同所組頭
          喜  蔵  印
        百姓惣代
         篠原長八郎  印
       立入方
        中津川村庄屋
         肥田九郎兵衛 印
        大井宿問屋
         林 良左衛門 印
        伏見村庄屋
         加納市右衛門 印
  水野篤助様
   御陣屋        (差上申済口証文之事幸脇家文書)
 
 鉾平、前平は、結局千旦林と茄子川の入会ということになったが、両村の入山の時期をずらすことで話がまとまったのであろうか。以上、根の上山系をめぐって山論を述べたが、逆にいえば、この山系をめぐって 手金野村、千旦林村、茄子川村、飯沼村、阿木村が生活面で結びついた一つの地域といえる。