東野村と阿木村(枝郷青野村)の山論

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阿木より東野へ出る道は、上道筋(阿木村内野田より東野中ノ嶋へ)と下道筋(阿木村内野田、枝郷青野をへて 東野中ノ嶋)の二筋であった。
 下道筋を岩村領支配役人の通行の場合や、先触がきた時は枝郷青野村役人が案内をしていたし、道作り、道草刈などもしていた。この阿木川ぞいの山は横吹山で、山の下の阿木川には座頭ヶ渕という川渕があった。元禄八年(一六九五)には、佐々良木村百姓佐次右衛門の娘で、たねという神子(みこ)が、この渕で入水死をしている。宝永三年(一七〇六)一一月一二日晩方には、阿木村藤上の百姓茂兵衛が入水死をしている。
 この座頭ヶ渕の下流の駒瀬平、上流の出合平をはじめ、枝郷青野村全体は、阿木川ダム工事で水底に没する。享保年中に、小さい枝郷の青野村は、本郷阿木村と他の枝郷の援助のもと、東野村と生活をかけて山境を争ったが、その論所の一部も阿木川ダムの湖底になろうとしている。
 東野村と阿木村枝郷青野村との山論については、青野鷹見家文書の中に、絵図も含めて一部始終がよく残されている。以下同文書によって、経過の大要をあげると次のようである。
 はじまり。享保一五年(一七三〇)四月一四日 青野村の百姓が、横吹山で木草刈をしていたところ、東野村百姓二〇余名が棒揃で 青野村の百姓を追出し、鎌七丁をとってしまった。このことを、青野村組頭弥平次は阿木村庄屋彦助、九良兵衛はじめ組頭などの援助を得て、代官所へ訴えた。
 ところが、代官所よりは逆にこの論所と山に対して「右場所入込木草取申間敷旨」と留山に仰付けられてしまった。ついで、四月二〇日、阿木村百姓七名が草刈にいったところ、東野村山廻り者に見つかってしまい、東野から代官所へ、阿木村から百姓は留山に入っていると、ご注進が出されたので、阿木村役人たちは、代官所からお叱りを受けた。
 しかし、よく調べてみたら、阿木村百姓が木草刈をした場所は、青野村の脇で留山の中ではなかった。こうして阿木村本郷百姓も東野村との山論に入り、争いは大きくなった。享保一五年(一七三〇)一一月二二日 「奉願口上の覚」として、青野村組頭弥平次、百姓代半七郎をはじめ、阿木村本郷の庄屋、組頭、他の枝郷の役人たち総計二〇名の名前で、岩村へ訴えでた。
 奉行所からは「双方立合之絵図仰付」と「東野村へ返答書仰付」が出された。あけて享保一六年(一七三一)正月一六日 絵図小屋をきめて、双方より立合絵図仕立にかかった。絵図を作っている時は論争はしない約束であったが、上道筋、下道筋両方とも道法の丁間をはかるか、下道筋だけにするかで、もめたこともあった。東野村からの返答書は享保一六年二月二〇日に提出された。
 こうして吟味がはじまり、同年八月に裁許が下った。その文面は次の通り
 
 阿木村并青野村ト東野村山論裁許書之事
 一 阿木村青野村訴候 東野村ト山境くみか沢 桧か入 一盃清水迠ハ沢筋境 一盃清水三っ辻より甚内鳥屋以上 飯沼村山境立坂迠ハ道境 右境より□□井戸洞 うすがね うすがびら 細がくて 山梨が洞 朴木が洞 奥が洞 牛すべり 三つ洞 横吹 かけ平 こませ平迄ハ青野村手山 桧が入沢より南井のくごより志きみが洞 岩かし 大日かけ 引越の荷場 甚内鳥屋 吹上立坂迄阿木村本郷向寄之者并青野村古来より木草苅来候証拠ハ青野村半七家東之方え流出 井戸洞ハ青野村切開候砌より東野村ト山境くみが沢より井を堀青野村用水之沢ニテ 扨又横吹山之下 座頭が渕ニテ元禄八亥年十月佐々良木村佐次右衛門娘神子たねと申女果 阿木村より丹羽様御役人江訴右場所に埋墓所有之并宝永三戌年十一月阿木村之内藤上茂兵衛 座頭が渕江入水果罷在候を見出注進之上横吹之下ニ埋墓所有之 其外甚内鳥屋ト申ハ阿木村野田百姓甚内鳥場殿甚内鳥屋ト申来由証拠申立候事
 一 東野村返答書ニ阿木村青野村ト山境ハ飯沼村山境大洞が峯より吹上笹か峯 大たを 桧が峯 朴木が峯 こませ出合峯割境 其証拠ハ元禄七戌年五月横吹ニテ野井村九郎右衛門と申者がけ江落果候を東野村より丹羽様御役え訴取仕廻 野井村より一札取置候旨并先年岡田将監様え差上候丁間扣書ニも阿木村山境迄之丁間有之由ニテ右両面通之書付出之 拠又横吹之下ニ墓弐ヶ所有之此墓ハ長根通ト申人馬通用之道え座頭弐人通り掛りがけえ落弐人共ニ果 其所ニ埋夫より座頭が渕ト申来 其外横吹之儀ハ惣名花なし山之内ニテ東野村山ニ無紛候 然共花なし山ハ阿木村飯沼村江茂根指山故ニ其村々江水流候分ハ其村々之山ト古来より口守来旦又貞享三寅年正家村ト東野村 鍋山致山論くら骨より出沢大ひら ごまそ出合テ夫より壱石とち迠正家村山ニ成候故 阿木村年久敷□□テ山論仕掛ケ候 尤こませと申所にて飯羽間川 阿木川東西より流当瀬之こまるを以古来よりこませと申来旨証拠ニ申立候事
 一 右ニ付訴状返答書を以双方遂僉義候処 東野村申立候丁間控書ハ年号月日名印無之第一丁間打初打留候所も不相知 勿論鍋山山論之節右書付証拠ニ不成ニ相見 くり骨より壱石とち迠正家村山ニ成并飯沼村ト東野村中尾山論之節も丁間控書 有之間敷之内飯沼村山ニ成候ト惣テ東野村申之右裁許状も其趣ニ相見旁難用旦又横吹ニテ果候九郎右衛門儀野井より一札取置候由ニテ指出候処 死骸請取候ト之儀幷果候場所も無之其上書判ニテ間敷故野井村庄屋組頭中飯羽間村ニ只今罷有九郎右エ門悴小七郎遂倹議 東野村者共迠引合候処九郎右エ門横吹ニテ果候ハ無紛候 併死骸者阿木村より請取其節東野村之者壱人も不立合候条 東野村江一札可遣様□無之テ小七郎申之不明付東野村元庄屋甚兵衛令僉義処 死骸渡候事ニテ取候一札ニテハ無之九郎右衛門難物之儀ニ付野井村より難澁申掛出入ニ成其義ニテ取候一札之由申東野村申方令相違 扨又座頭が渕ハ右座頭弐人果横吹ニ埋所其所有之夫より座頭が渕ト申来由 東野村難申座頭之証拠無之 旦又横吹ハ花なし山之内ニテ東野村山之由申ニ付令見分候処 別山ニ相見 東野村申所旁相違難用申方不相立候事
 一 阿木村申立候墓弐ヶ所ハ神子たね 藤上茂兵衛墓ニ無紛由 佐々良木者共并茂兵衛悴木実村清六等申之 第一東野村ト山境くみが沢より井を堀用水ニ致勿論井口先年青野村堀替候ト申場所見分之上無相違阿木村青野村申口相立候事
 一 甚内鳥屋 三辻 一盃清水ト申所迄阿木村ト申ニ付遂見分候処 甚内鳥屋 三っ辻 一盃清水迄ハ花なし山エ根続ニテ 阿木村申立候ハ相違ニ相見候事
 右之通遂僉議絵図之裏継目ニ印形有之六人之者共論山令見分候処 双方より之の境筋引相違相見候
 依之両村山境ハ吹上ト阿木村申立候 引越之荷場迄ハ峯割夫より沢江引下し 駒瀬平迄ハくみが沢を境ニ相極絵図仕立境通ニ墨筋引合印形双方江壱枚宛相渡候条 右峯割境之所ハ墨筋印形之場所へ塚三ッ築之□相守違乱仕間敷候
 尤青野村手山ハ書面之通相守 阿木村ト青野村入相之場所ハ桧が入沢ト南井のくこ志きみが洞岩ふし大日影引越之荷場吹上立坂迄入相ニ可守之為後証仍裁許書如件
           青嶋伝内    印
 享保十六辛亥年八月 比企忠蔵    印
           市川与右衛門  印
           大山傳八郎   印
           市川与右衛門  印
           大山傳八郎   印
           宇野安大夫   印
           大山文右衛門  印
           刀丸元右衛門  印
           山川藤兵衛   印
           竹内平蔵    印
           小菅五郎次   印
           沢井平十郎   印
           味岡次郎右衛門 印
           黒岩六郎兵衛  印
 
 以上のように、阿木、青野側の申分をあげ、それぞれの証拠について論断し、裁許しているが、阿木、青野側の申分がだいたい認められている。その中で、①枝郷青野村だけの山(手山)と阿木本郷と青野の入会山の範囲をあけていること、②峯割境の場所へ塚三つ築くこと、なども含まれている。こうして、東野村と阿木・青野の山論は一応終結したが、この山論の出費(三五貫六二三文)を、どうするか。阿木本郷、青野は論山部分が広いから三分の二を負担すべきだし、その上青野村は手山と阿木入会と裁許された場所以外では木草を採っては困ると主張した。これに対して青野は手山部分は、もともと自分たちの山で、どのようにしても青野の「勝手次第」であるし、阿木山入会については「何方迠も入会木草苅来候」と主張して譲らなかった。
 そこで同じ枝郷である両伝寺村組頭又八郎、福岡新田庄屋弥左衛門、広岡新田庄屋惣三郎が仲裁に入って、享保一七年(一七三二)五月七日付で、次のようにまとめた。
 ①青野手山の山口明は阿木村惣山と同日にする。
 ②山論費用は、阿木本郷二分の一、青野村二分の一の折半負担とする。
 ③青野村は阿木村惣山に対して、どこまでも入会できる。
 ④青野手山の中に阿木村百姓は入ってもよいが、木草苅はいけない。(同件の噯証文之事より青野鷹見家文書)

 こうして、決定した枝郷青野村の山論費用負担分は 次のようである。
 
 一 銭一七貫八一二文
   換算金 三両一分九一二文
   換算米 四石二斗四升七合三勺二才
   (但し一〇両=米三一俵  一両=五貫二〇〇文)
  これは山論惣入用三五貫六二三文のうちの半分(手山分)
 一 銭三貫一三七文
   金にして弐分五三七文
   米にして七斗六升九合三勺九才
 これは役人、人足の昼飯、岩村宿払、諸品調物
 一 合計銭二〇貫九四文
   米に対して四石九斗九升六合七勺八才
   俵にして一二俵一斗九升六合七勺八才 (青野・鷹見家文書)
 
 阿木本郷と枝郷青野は、享保一七年の約束で入山していたが、時代が下るにつれて、草刈場の必要が高まり、入会権と入会山について争いが再発している。
 大きな争いは、明治維新までに二回あるが、第一回目は天保~弘化にかけて発生した。天保一五年(弘化元年=一八四四)六月七日に青野村から阿木宮田組頭林右衛門に対して、青野の山手へ入らないように申込んだ。
 それは、この頃宮田の百姓たちが、青野村手山へ草、薪など刈りに入込んでいたのを日を延ばし、だまっていたが、もうこれ以上は「一切入込んでくれるな」というものであった。
 このわけは、文政元年(一八一八)阿木村一統草場を割山にした。その時阿木本郷は、山払底に付きということで、青野村手山内にて約一萬坪をとり割山にした。そのかわり、青野村に対しては木の実、山の神、道上下、小沢坂で約一萬五千坪くらい渡そうということ、青野村も納得していたが、天保一五年(弘化元年)(一八四四)「本郷の義ハ割山ニ候処 以後割山相止メ勝手次第苅取候ニ付 枝郷にいたるまで何れ迠も罷越し苅り候様……」(青野と阿木一件青野鷹見家文書)と役人に言われたと、本郷の小前百姓が青野村手山に入って来たものである。
 青野村としては、享保の裁許をあげて、青野村手山は明白に境も定まっているし、阿木本郷は青野手山に入込んではいけないことになっていると、本郷百姓の入るのを拒否した。
 これに対して阿木本郷は、それならば貸山にしてほしいと内談で青野に申込んだりした。青野村は「当村手山へ大勢入込草苅取られては 元来人少の村方御田地取廻し不行届け甚だ以心痛仕候」(奉願口上書 青野鷹見家文書)と、他の枝郷の応援を得て、ことわり続け、同年六月二七日付で代官平野孫右衛門宛へ口上書を出したりしたが、岩村町の町役人長谷川平七、両伝寺組頭小四郎が仲裁に入って、次のようにまとめて、訴えは願い下げにした。
 
  差上申一札之事
 一 当村之内宮田組 野田組草場払底ニ付 此度各々方より御頼被下 青野村手山之内井戸洞日影平道上 同向道上分右村方より当辰(弘化元年)より来丑(嘉永六年)迠先拾ヶ年之間当村方え貸山ニ御取扱被下候段 奉存候 然ル上借用之分 境抗之外猥ニ刈取申間敷万一心得違之者有之候ハバ 何時ニテモ思召次第之御取付可被下候 其節一言之義申間敷候為後日差入申一札 仍而如件
           阿木村宮田小前惣代
                       善兵衛
                       半四郎
                       武兵衛
                    野田同断
                       喜平次
                       清兵衛
                       村 吉
  天保十五年甲辰年九月
                同村百姓代 弥  吉
                   組頭 林右衛門
                       彦十郎
                     庄屋 半七
   岩村町  長谷川平七殿
   両伝寺村組頭 小四郎殿
  前文之通我等共立入取扱候所 双方納得内済之上ハ向後相互に□ツ間敷可被致候 為後日□書致所仍而如件
               両伝寺村組頭 小四郎 印
   同日           岩村町 長谷川平七 印
  青野村組頭
     利右衛門殿
     百姓代
     次兵衛殿
     百姓惣代
     半左衛門殿
                       (差入申一札 青野鷹見家文書)
 
 この「差入申一札」の日付は九月になっているように、九月で内済したが、本郷側が小前百姓の印をとること、仲裁者の岩村町平七の病気などで、内済報告の一札写差上は一一月五日となり、正式内済はそれより遅れて、一二月二五日になっている。こうして翌弘化二年(文書では天保十六年としている)正月二四日に貸山境杭打ちをしている[Ⅴ-22表参照]。それについて、青野鷹見家文書には次のように記されている。
 
  天保十六乙巳年正月廿四日 貸山境杭打
  立合 平七 小四郎
  井戸洞 日影平道上 向道上
  阿木側 野田、彦十郎(組頭)、宮田、林右衛門(組頭)
      両村小前百姓不残参加
          以上
          青野村組頭 利右衛門
            百姓代 次兵衛
            惣代  半左衛門
                        (差入申一札附文書 青野鷹見家文書)
 

Ⅴ-22 青野村山略図

 こうして、青野村が本郷の要請を入れた内容で仲裁が成立した。この内容から考えられることとして、次の三点があげられている。
 ①本郷といっても、宮田、野田の小前百姓の草刈場要望が強くでていること。
 ②青野村手山の中、阿曾田よりの井戸洞一帯を十年間貸山にしたこと。
 ③枝郷青野村は①、②によって、その独自性をうすめたこと。
 貸山にした井戸洞一帯は阿曾田よりであるが、この一帯も阿木川ダムにて水没するところである。
 こうして、阿木村本郷百姓には、青野村と阿木村を区別していく考えがだんだん薄くなっていく、特に貸山に多く入ってくる宮田、野田の百姓には、その気が強かったであろう。
 嘉永二年(一八四九)には、青野村手山の本命である朴木ヶ洞(参照第22図表)、横吹通りに新道を作り草刈をするまでに、阿木村本郷が入ってきた。青野村では阿木村庄屋に申込んだが埒(らち)明かず、広岡・両伝寺など枝郷の村役人を頼んで、阿木村本郷に交渉してもらったが、これも駄目、そこで飯沼村庄屋義助、岩村下町善次郎を頼んで、阿木村本郷へ申入れるが、承知なし。
 そこで、嘉永三年六月に「奉願口上之覚」として、代官所ヘ青野村役人は願上げた。それによると、
 ①阿木村がきめられた場所へ草刈(馬草)に入ってくることは、異議はないが「前々入込不被申候場所」へ、新道を作って、悉く馬草刈りとられては、青野村は殊の外に手詰り、困窮になる。
 ②柴草をきれいに刈りとられては、来春の木草はなくなる。青野村は地味が悪く、田の「こやし」に困ってしまう。
 ③本郷といっても野田、宮田の百姓が青野村の言分を聞こうとしない。つまり野田、宮田の百姓がもっとも強硬である、と飯沼村庄屋義助がいっている。小前百姓の採草地問題でもあろう。
  飯沼村の宮地日記(明和七年分)によると、
 
  萱ヶ洞山出入扱候
  役人中より喜左衛門 源兵衛の出入見分与吉(組頭)方ニ扣 惣山代七両ニ積リ 半金三両弐分 源兵衛より喜左衛門に遣 山は不残源兵衛に積……… 道替之節は勝手次第両方ニ苅筈也 千治郎(宗門帳千治郎)家ヲ訳(わけ) 林無之難儀之由申候ハバ 其節ハ七両ニテ遣候筈ニ定済申候
 
 の記事がある。「惣山代七両ニ積り」とか「七両ニテ遣候筈」などの文面が見られるように、惣山に対する権利の売買(割山)のようなことがあったことがわかる。そうした金策の立たない小前百姓はしめ出されることになり、「山払底につき」ということで、青野村手山に入ったのであろうか。
 嘉永六年(一八五三)には、一〇か年限りの貸山も年限がきた。そこで改めて、嘉永七年(安改元年)次のような内容で阿木村本郷と青野村は「為取替一札之事」(青野・鷹見家文書)をとりかわした。
 ①青野村が目こぼし阿木村本郷百姓が入込みを承知する山(貸山入会とする)
  井戸洞道上--桧が入、うすがね、よこ座、うつ平、三ッ塚、牛すべり、こませ平、横吹中より下(廉(しし)道境)
 ②阿木村本郷百姓が堅く入ってはこまる山
  井戸洞道下--山が洞、夏やけ、出合平、朴が洞、奥が洞、横吹中より上
 ③青野村は阿木村本郷の山、どこまでも入会であること
 ④阿木村本郷割山割替又は潰れになっても青野村にては割山そのままにしておき、本郷より一切入込まないこと。
 ⑤青野、本郷入会の場所へは木草より入るようにすること。
 以上が、取替一切の主な内容である。
 弘化二年(一八四五)から、一〇か年貸山にした場所とは、やや広くなって、年限を切らずに、青野村は阿木村本郷に貸山をつづけることになった。嘉永二年(一八四九)酉年よりつづいた入会山論は寅年である安政元年(嘉永七年)に決着したが、枝郷青野村の山としての独自性は更に薄くなった感じがする。
 明治維新後阿木村は一時、枝郷を含めて、東西の四地域にわけて行政を行っているが、その素地はこうして、枝郷と本郷の違いが薄められる中で可能になっていったものであろう。
 山論としては、この他に享保一二年(一七二七)決着の馬籠村と落合村の境争いが信濃の国境と結びついて、特異なケースとなっているが、塚田手鑑(市史中巻別編一〇六五頁)に略記されている。馬籠村とは湯舟沢村も山論をしている。
 以上山論については、根の上をめぐる村を中心にまとめた。