美濃における中山道

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慶長五年(一六〇〇)関ヶ原役勝利の帰途、徳川家康は西国大名の将来の巻返しに備えるために要害の地を求めた。急を要するこの時、美濃国守護土岐持益の執権斎藤利永(?~一四六〇)が文安二年(一四四五)に築城した加納城の跡を拡充して築城するのが最も適当と考え、岐阜城の資材も運んで急速に進め、翌慶長六年三月、ここに奥平信昌(?~一六一五)を配して一〇万石を与えた。信昌は、武田勢に苦しめられていた信長・家康の前途を開かせた長篠合戦(天正三年=一五七五)の功労者で、家康が長女亀姫を妻に与えたほどの武将である。この美濃の地が、かって壬申の乱(壬申元年=六七二)をはじめ、源平合戦(養和元年=一一八一)、承久の乱(承久三年=一二二一)に際して天下分け目の決戦場になったことを、家康が想起したからであろう。
 また西日本勢防衛の前衛として譜代の雄藩彦根の井伊氏を、後衛として御三家の筆頭の尾張徳川氏を配したこと、中山道の木曽福島に関所を設けて代官山村氏に守備させたこと、これらにも家康の並々ならぬ苦心のほどがうかがわれる。
 これらのことによっても、中山道が持つ政治的、軍事的な重要性を充分理解することができる。
 中山道は多くの脇街道とつながっている。中山道と結ぶ美濃路は、垂井から大垣・墨俣を経て名古屋に通じ、関ヶ原から長浜にいたる北国街道、関ヶ原より牧田・多良を経て桑名へ出る伊勢街道、岐阜より一宮を経て名古屋へいたる岐阜街道、大井宿の西、槙が根の立場から竹折・釜戸・うつ津を経て名古屋へ出る下街道、中津川宿の東町端から苗木・加子母を経て高山に至る飛驒道などである。美濃国に於ける中山道は、これらの脇街道によって表日本や裏日本を結んでおり、その政治上、軍事上の重要性は、はかり知れないものがあった(県教委・中山道調査報告書参照)。
 東濃地方の中山道は、海抜五〇〇m余の新茶屋から十曲峠をくだって落合宿へ、そこから丘陵地をのぼりおりして中津川宿・大井宿のある小盆地を通り、海抜三九二mの槙が根峠からまた丘陵地をのぼりおりして大湫宿へ、海抜五〇〇mの琵琶峠を越えて細久手宿を経て御嵩宿に達している。坂道や峠の多い道である。特に大井宿からは人家もきわめて少ない丘陵地帯の尾根や、尾根に近い高原上を通って、部分的には曲折も多いが、全体としては東西にほぼ一直線に延びて、大井宿と御嵩宿を最短距離で結んでいる。十曲峠・琵琶峠越えは当時中山道でも屈指の難所といわれたところを含み、距離は短いがことさら難所つづきに造られていた。ここにも東濃地方の住民の生活の道というよりは、この道の政治性や軍事性が感じられる。
 江戸幕府は、成立以来、五街道の宿駅に対して、人馬を提供させたり、助郷を指定して人馬の徴発を行って、輸送の仕事をさせ、あるいは宿泊・休憩の施設と業務を提供させたのであるが、これらは幕府の用務のためを第一義としていた。このことと、槙が根から中山道と分かれる下街道が、たびたび通行停止の触が出されるのに、生活の場である土岐川沿いの盆地や濃尾平野を通って名古屋に達している生活の道・商品流通の道であったことと対比して考えると、中山道は幕府の政治上・軍事上の政策的な幹線道路として通されたものと考えられる。