Ⅵ-2 落合宿・中津川宿村付近の中山道とその普請 (中山道宿村大概帳)
道幅は、馬籠宿地内が一間半で最も狭く、中津川宿地内が三間~四間で最も広く、ほかの宿村は二間~三間であった。享和元年(一八〇一)の記録では中津川宿地内で「道幅三間ゟ四間迠不同」(市岡家文書・享和元年御分間御絵御用宿方明細書上帳以下「享和元年・御分間書上帳」と略す。)となっている。
道普請について見ると、馬籠宿地内と手金野(てがの)村地内では「自普請」、すなわち中山道が通っている宿村が普請をすることになっていたが、落合宿地内、中津川宿地内、駒場(こまんば)村・千旦林(せんだんばやし)村・茄子川(なすびがわ)村の地内はともに「尾州ゟ(より)普請」となっており、尾張徳川家が道普請の費用を負担したのである。ところが、元禄九年(一六九六)の中津川宿から落合境・大井境までの中山道道普請についての記録を見ると次のとおりである。
中津川宿地内から茄子川村地内まで、どの宿村もその宿村地内の道路は、「○○村より道作り申候」となっており、それぞれの宿村の負担で道普請を行っていたと考えられる。各宿村ともに道作りに出る家数も決まっていたようで、中津川村では三〇軒、駒場村では街道筋三〇軒のうち一九軒が道作りに出ていた。手金野村では二軒、千旦林村では街道筋七一軒のうち七軒、茄子川村では三五軒のうち一〇軒が道作りに出ていたのである。
享和元年(一八〇一)にも、中津川宿地内で「往還道作り之儀ハ 自普請ニ而御座候」(市岡家文書、享和元年・御分間書上帳)という記録があり、宿村で道普請をすることになっていた。このように見てくると、元禄から享和年間ごろまでは、宿村の負担で道普請をすることになっていたが、その後、天保~安政期までのうちに、尾張徳川家の負担で道普請が行われるように変化していったものと考えられる。