道路や橋の普請の当事者がきめられ、道路の整備が行われた上に、街道を掃除をする義務が沿道筋の宿や村に区間をきめて課せられていた。その区間を掃除丁場といい、道中奉行から、時々その丁場を守って必ず掃除を行うように触が出された。次に掲げるのは享保三年(一七一八)に出された中山道往還掃除勤についての道中奉行廻状とそれに対する中津川宿ならびに間の村々の請書である。
御江戸廻状
宿々往還通り掃除丁場 所々不勤之村方も有之由粗相聞候間 御領私領共ニ古来ゟ勤来候割合之通 急度可相勤候 若掃除不勤村方於有之ハ 其所々ゟ可訴出候 吟味之上可及沙汰者也
戌六月二日 伊勢御判
石見御判
中山道板橋ゟ守山迠
美濃路共ニ
右宿々 [問屋年寄]
中山道宿々御請帳
右御触書之御趣拝見仕奉畏候 依之往還通り掃除丁場道長間数 宿前後間之村々共ニ書付差上申通相違無御座候 為後日一札差上申候 以上
中山道中津川宿
享保三年(一七一八) 戌七月三日 問 屋 長右衛門
同 四郎右衛門
(年寄名四名省略)
御奉行様御役所
中津川宿並間之村々掃除丁場
(掃除丁場間数) (領主) (宿村名) (名主)
道長 一五五四間 尾州御領 濃州恵那郡中津川宿 瀬左衛門
内 一二九四間 江戸之方
二六〇間 大井方
道長 九六一間 尾州御領 濃州恵那郡駒場村 清兵衛
道長 二七八間 尾州御領 濃州恵那郡手金野村 利兵衛
道長 一七五三間 尾州御領 濃州恵那郡千旦林村 又右衛門
道長 九二〇間 尾州御領 濃州恵那郡茄子川村 助次郎
内 一八五間 馬場左門知行所 右 同 村 清七郎
(市岡家文書)
「中山道宿村大概帳」の中津川宿の部に、次のような記載がある。
一 此宿ゟ大井宿迠之間往還掃除町場
且 往還掃除之儀 宿内之分其所町場ニ而他村より入込候町場無之 間之村々右同断
但重キ通行之節ハ 間之村々江前後宿方ゟ掃除之儀相触来
駒場村往還 長千拾間 居村町場
手金野村往還 長弐百七拾八間 居村町場
千旦林村往還 長千七百五拾三間 居村町場
茄子川村往還 長九百弐拾間 居村町場
中津川宿地内は中津川村で掃除を行い、他村より掃除に来ないこと、間の村である駒場村、手金野村、千旦林村、茄子川村もそれぞれの地内の中山道の掃除を行い、他の村から掃除に来ないことになっていたのである。朝廷や幕府の重要な役人、大名、公家、門跡などの重き通行の節は、前後の宿から間の村々へ掃除を行うように触を出すことになっていた。道路掃除という労役は、宿の伝馬人足役、助郷(村からの人足・馬の徴発)に加えて課せられるものであった。さらに重い通行の時には、道路にまき砂をしたり、立砂をしたりすることがあった。その後には尾張徳川家から役人が検分に来ることが多かったようである。