江戸幕府は、慶長九年(一六〇四)、徳川秀忠が諸街道の改修に際して一里塚とともに並木を植えさせ、以来その補植保護政策は幕末まで続いたという。
慶長一二年(一六〇七)には、道の両端歩行の禁止と路傍の樹木抵触の禁止を行い、宝永七年(一七一〇)幕領内の並松の植つぎを励行し、享保一一年(一七二六)の新田検地条目では並木際の田畑年貢の木蔭引を認めている。宝暦一二年(一七六二)には五街道とその付属街道・脇往還など、すべての往還並木を植えさせ、枯木・風折れ・根返りなどは苗木を植えつがせ、並木によって道幅の狭まる所は道造りをさせ、田畑地境に定杭を立てさせた。天保一四年(一八四三)並木を点検させた等々である(丸山雍成・近世宿駅の基礎的研究 駅逓志稿)。
街道筋の並木は旅人に行路を見通させると共に、風情を添え、夏には緑蔭をつくって休息の場を与え、冬には積雪を防ぐという役割を果たしたといわれるが、当地方の街道の並木はどの様であったのか。天保~安政期の中山道の並木間数を拾うと次のようである。
宿 村 名 並木間数 並木率
馬籠宿地内 〇間 〇
落合宿地内 一四四間 〇・〇七
中津川宿地内 九三二間 〇・六〇
駒場村地内 一〇間 〇・〇一
手金野村地内 三〇間 〇・一一
千旦林村地内 五〇間 〇・〇三
茄子川村地内 四五間 〇・〇五 (中山道宿村大概帳)
並木間数がゼロの馬籠宿地内について、「中山道宿村大概帳」は、「此宿往還両側飛々家並ニ而其余尾州領林山々也 木曽路之内都而並木無レ之」と記しており、木曽路は並木が無かったのである。家並がとびとびにあって、あとは尾張徳川家領林の山々だから松並木は必要なかったのであろうか。落合宿地内は「宿内往還両側町並之外並木有之」と記されているが、並木率はわずか七%である。中津川宿地内では、延享元年(一七四四)三月には「茶屋坂ゟ三五沢迠 両側並木三百六本植付ル」(中川旧記)ことがあり、天保~安政期に並木間数が九三二間で、六〇%という高い並木率を示しているものの、享和元年(一八〇一)の記録によると「宿内御並木 但シ町端ゟ落合境迠九百三拾弐間 両側斑に御座候」(市岡家文書・御分間書上帳)という状況で、九三〇間のあいだに並木があっても、両側にまだらにあるという状況であった。駒場村から茄子川村まで一%から一一%の状況であったから、幕府の並木補植保護政策は徹底していなかったのであろう。