当地方の中山道の一里塚は、どのようであったのだろうか。中山道の馬籠宿境~大井宿間の一里塚についての記録を抜き書きすると、Ⅵ-5表の様である。
Ⅵ-5 当地方中山道の一里塚
享和元年の三五沢、上ミ宿、三ッ屋の一里塚は、左右共に塚があり、立木も左右共に榎であったと思われる。天保~安政期になっても塚は左右共に存在している。立木になると上ミ宿の一里塚は左右共に榎であり、変化はないが、三五沢、三ッ屋の一里塚は共に右側の塚に立木がなくなって、左側の塚に榎が残っていた。新茶屋の一里塚は、右の塚に松があり、左の塚には立木が「無之」となっている。大井宿地内の石塔の一里塚は、左の塚に榎、右の塚に松が植えられていた。左右の塚ともに榎が植えられていた所と、左右の塚で榎と松に分かれていた所があったようである。