一里塚

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街道には一里ごとに塚が築かれ、榎や松が植えられていた。この一里塚は、起伏の多い長い旅路を急ぐ者に行程の目安を与え、休息の場を提供すると共に、前途へ更に一歩踏みだす力を与えるものであった。慶長九年(一六〇四)二月、徳川秀忠は、家康の下命により、日本橋を起点に東海・中山・北陸の三道をはじめ全国的に一里毎に双堠(そうこう)を築き、榎か松を植えさせた。一里塚は「方五間」というのであるから、五間四方の小山形の塚を築くことになっていた。また街道の左と右に、対に築くことになっていた。しかし、ごくわずかだが片側だけの一里塚もあったという。
 当地方の中山道の一里塚は、どのようであったのだろうか。中山道の馬籠宿境~大井宿間の一里塚についての記録を抜き書きすると、Ⅵ-5表の様である。

Ⅵ-5 当地方中山道の一里塚

 享和元年の三五沢、上ミ宿、三ッ屋の一里塚は、左右共に塚があり、立木も左右共に榎であったと思われる。天保~安政期になっても塚は左右共に存在している。立木になると上ミ宿の一里塚は左右共に榎であり、変化はないが、三五沢、三ッ屋の一里塚は共に右側の塚に立木がなくなって、左側の塚に榎が残っていた。新茶屋の一里塚は、右の塚に松があり、左の塚には立木が「無之」となっている。大井宿地内の石塔の一里塚は、左の塚に榎、右の塚に松が植えられていた。左右の塚ともに榎が植えられていた所と、左右の塚で榎と松に分かれていた所があったようである。