立場

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街道筋で人夫などが駕籠などをとめて休息する所として立場があった。天保~安政期に馬籠宿~大井宿境間にあった中山道の立場についての記録を掲げると次のとおりである。
  (宿村名)  (立場の位置)  (前後の宿への距離)
馬籠宿地内 字新茶屋馬籠宿へ 一九町三六間落合宿へ 二一町二一間
落合宿地内 字与坂落合宿へ 一〇町 四間中津川宿へ二五町五六間
千旦林村地内字小石塚中津川宿へ二四町大井宿へ  二里
千旦林村地内字坂本中津川宿へ 一里半大井宿へ  一里六町   (中山道宿村大概帳)

 立場には茶屋などがあったのであるが、小石塚の立場にはすでに元禄九年(一六九六)の中津川宿の「道筋橋并坂書付」に、「かいセう沢坂橋有 手金野村支配 其所ニかいセう沢坂有 夫ゟ小石塚と申茶屋有 千旦(林)村境迄三町三拾五間」という記載があり、茶屋があったことがわかる。
 寛政元年(一七八九)の与坂・小石塚・坂本の立場は、次のとおりである。
 
  与坂立場茶屋壱軒 落合宿ゟ此所迠 九町廿八間
  小石塚立場同村(手金野村)之内、百姓家七軒、内(壱軒 手金野、五軒 千旦林、壱軒 駒場)
中津川宿ゟ此所迠廿壱町廿五間 手金野・千旦林村境
  坂本立場同村(千旦林)之内、家数五軒
中津川宿ゟ此所迠壱里拾五町、千旦林村・茄子川村境 (中山道筋道之記)

 
 これらの立場茶屋では、湯茶をはじめ、一膳飯・水菓子・団子、簡単な酒肴をつけた食膳もあって、街道往来の旅客や交通業者などには重宝な存在であった。ところが、立場茶屋などが繁昌するようになると、宿駅の旅籠屋の営業を圧迫するようになるので、道中奉行から大名や公用武家の立場茶屋等への休息禁止の触れが出されることがあった。
 万延元年(一八六〇)三月、中津川宿本町の旅籠一七軒が取決めて宿役人に出した願書の文面に、
 
 一 新町にて旅人留候義并千旦林 茄子川村にて 商人勿論旅人留候間 会所より御差留被下候様仕度 其後は行司にて締り可申候間 宜敷御差留可被下候   (市岡家文書・市史・中巻別編参照)
 
という一項があり、千旦林・茄子川村の立場茶屋等で商人や旅人を宿泊させることがあるので、それを停止させるよう願い出ている。立場の茶屋など、宿駅の旅籠屋以外で旅人を宿泊させることが、宿駅の旅籠屋の営業の支障となるので、その停止を願い出たものと考えられる。

Ⅵ-6 中山道の坂道(馬籠宿境~大井宿間)


Ⅵ-7 中山道沿いの人家数(落合宿~大湫宿間)