妻籠宿

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妻籠城跡のある小高い城山を右に見て、麓に近い坂を下り、左へ大きく曲がって上ると恋野の街並にでる。「木曽古道記」(園原旧富)・「中山道分間延絵図」(東京国立博物館・東京逓信博物館所蔵)では鯉野となっており、ここは妻籠宿の北のはずれである。家が並ぶ西側から道をはさんで向い側に、鯉岩と呼ばれている巨岩がある。「木曽路名所図会」(文化元年刊行)にも鯉岩の名で出ており、鯉が口を開けた形をしていたと絵が添えてある。明治二四年(一八九一)の濃尾大地震で元の形が変わってしまったと言われており、今は鯉が口を開けた形になっていない。
 鯉岩から町の中心に向かって左側に口留番所跡がある。木曽氏によってここに設置されたものであるが、武田勝頼が織田信長と対抗していた天正年間も番所を置き、木曽の守りを固めさせた。その後、木曽の代官を勤めた山村氏も番所を置いたことから、妻籠は、木曽谷を守り固める要所としての地形的な条件を備えていたといえる。慶長一九年(一六一四)大坂冬の陣の折、千村氏の家臣、馬場昌次とその子三郎左衛門らが番所に詰め守りを固めた。以後、番所がいつまであったか定かではないが、寛文の林政改革まで存続していたようであり(南木曽町誌)、少なくとも、木曽福島に関所が開設された慶長七年(一六〇二)までは存続したと思われる。坂を曲り下る手前右手に高札場の跡がある。今は復元されていて、正徳元年の高札七枚が掲げてある。当時の高札場は、二段の石垣の上に一mもある土台を置き、三m余の柱を立てて高札を掲げた。下町の西端の町資料館[長野県重文]になっている家は妻籠宿の脇本陣を勤めた林家の旧宅である。屋号を「奥谷」といい、江戸時代には造り酒屋を家業とし、問屋を兼ねていた。今の建物は明治一〇年(一八七七)に建てられたもので三階屋になっている。家の中は総て解放されているので、二階、三階の間にぜいを尽くした座敷を見ることができる。玄関から裏へ土間で通じており、裏庭にある土蔵が改造され、資料が展示してある。
 慶長六年(一六〇一)の木曽代官山村良候の問屋発令状があり、和宮拝領の車付き長持、宿場関係の資料が多く陳列してあって、宿場文化を知ることができる。また、島崎藤村にまつわる数多くの品がある外、代々使用された日用雑器等まで展示してある。
 
  中山道宿村大概帳による妻籠宿は、
 一 宿内町並東西へ二町三十間
   但し 寺社地先とも
  天保十四卯年改め
  宿内人別四百十八人 内[男二百十六人女二百二人]
 一 宿内惣家数八十三軒
    内
  本陣 [凡そ建坪百四十四坪半中町門構え・玄関附]一軒
  脇本陣 [凡そ建坪百十坪半下町門構え・玄関附]一軒
  旅籠屋  三十一軒  内 大  七軒
               中  十軒
               小 十四軒
 
 中町を西へ行くと左手に本陣跡がある。最近まで妻籠営林署の建物が建っていたが、今は公園広場となっている。本陣は代々島崎姓で、馬籠の島崎家とは血縁関係がある。林家と交替で庄屋も勤めていた。本陣付近は宿のうちでも道幅が広く取ってあり、本陣の前、道の中央に秋葉神社の祠が建っていた(宿村大概帳・中山道分間延絵図)。街並は貞享三年(一六八六)に、東側に三〇軒、西側に三四軒の町家が建ち並んでいた。中町の西のはずれに文化六年(一八〇九)の常夜灯が建っている。宿場七人衆が建てたものとされ、その名前が刻んである。常夜灯の手前から右へ折れ曲がり下っているのが枡形である。ここから先は寺下(じけ)といい、江戸時代中期から末期の家が建ち並び、街並が復元されている[国史跡]。

Ⅵ-8 妻籠宿の家並

 上嵯峨屋、下嵯峨屋は町の文化財である。ほかに、松代屋の軒下の指定宿屋の看板、生駒屋のあんどん式看板が珍しい。出梁(ではり)づくり、竪繁格子の家、卯建(防火用の土壁)のある家が建ち並んで、一軒一軒に違う趣がある。上の丁字屋の縁下には、牛馬をつないだ鉄環が残っている。また、上嵯峨屋から一軒おいた隣に馬屋が復元されている。
 枡形の左手、斜め前に石段があって、登って行くと瑠璃山光徳寺がある。
 寺は宿場を見おろす小高い所にある。天正一〇年(一五八二)飯田開善寺の性天和尚が、この地に小さな薬師堂を建てて隠居したのが開山の始まりといわれている。中に入ると、山岡鉄舟が書いた「光徳寺」の額が掲げてあり、本堂の廊下や欄間には欅(けやき)の一枚板が使われ、桧の千本格子などが使ってある。境内の東端の枝垂桜は樹令二五〇年を越え、樹高約一五m、目通りの周囲三、一四mという大木で、壁を乗り越えて下の道の上へ枝を張り花を咲かせている。石段を下った左横にあるお堂の中に大きな自然石の延命地蔵が安置してある。文化一二年(一八一五)に、宿の西を流れる蘭川で釣人が見つけたものである。四月の祭りが近づくと水にぬれたようになるので、汗かき地蔵と呼ばれている。道を西へ進むとだんだん家がまばらになって来る。左手道ぐろに小屋根で覆った共同井戸がある。左手は山に続いているため地下水を取っているのである。貯水槽の上に、尾又井戸組合と札が掛っている。
 道を一つ曲がると、今度は右手に関西電力妻籠発電所の建物が建っている。妻籠発電所は昭和九年一一月二三日に発電を始めた。発生電力は落合発電所変電所に送電して、中津川市内に配電されている。現在は無人発電所になっているが、妻籠宿保存運動に協力して発電所周辺を桧のげんじ塀で囲み、入口には立派な歌舞伎(かぶき)門を造って伝統的建造物群保存地区にふさわしい建物になっている。途中、五平餅を売っている店、わら細工の実演をし出来上がった物を並べている店がある。左手は道まで山が迫って来ている。その山ぎわの道に接するところに地蔵尊がたっている。しばらくは平坦な道で、道の両側に一軒の家もない。宿の西の端に南北に貫いて走る立派な舗装道路が中山道と十文字に交わる。蘭(あららぎ)を通って飯田へ至る国道二五六号線である。飯田までおよそ四〇km、昭和九年まで南木曽発のバスが清内路を経て、二時間半で飯田に通じていた。反対の右手へ行くと国道一九号線へ出る。十文字に交わる道の南西の一角に有料駐車場があり、休日には車でいっぱいになる。
 道は、ここから急に狭くなり、土道となる。右は蘭川で川岸に草が茂り、大小さまざまな石がごろごろしている河川敷の中の道を石の上にのったり、足を砂の中にめり込ませたりしながら西へ向かう。しばらくして、また舗装した車道へ出る。蘭川にかかる橋は大妻橋である。「壬戌(じんじゅつ)紀行」(享和二年=一八〇二=大田南畝)では「妻子橋をわたりて右の山に大石あり」とあり、妻子橋とよんでいたようである。橋の東たもとを南へ少し入った所に大きな石の道標がたっている。道端でないことや、すぐ近くに民家があるので見過ごされやすいが、高さ三・二m、一辺が四六cmの角柱で明治一四年に立てたものである。刻まれている文字は、「飯田道[元善光寺旧跡江八里半長姫石橋中央江八里]」である。大妻橋は、今はコンクリート橋であるが、古くはもう少し上流に土橋が架かっていた。少し時代が下がると、土橋と今のコンクリート橋の間に吊り橋が架けかえられ、現在の橋は三番目の永久橋である。
 中山道が蘭川を渡る地点は、度重なる洪水によって何回も変ったようである。蘭川を越した西側を橋場という。ここから土道になる。右手に「つるや」と木の板に書いて取り付けた民家があり、家の前から幅一m程の小径となって山の南斜面を登る。道は南に開け、向かいの山がすぐそこに迫って見える。坂道を取り巻く木々は、さして大木ではないが根が地上へ張り出し、土砂の流出を防ぐ格好になっていて、登るにも足掛りがあって都合がよい。道が山中へ入り、しばらく登って行くと、登りつめた所に道をはさんで西側に家が向かい合って建っている。こんな山の中にと思う所なので驚いて見ると、「しんめい茶屋」と記してあり、茶店の様相をした家が一軒右側にある。「中山道分間延絵図」にも「字神明」と出ているが、この地名は、道の北側の山に神明神社が祀ってあるところからとったものであろう。神明茶屋を過ぎると道は一気に下り坂となり、すぐに舗装道路へ出る。道の両側に針葉樹が生い茂り、道端の草の根元は湿気を帯びて舗装道路の上へしみ出ている。男垂(おたる)川に掛かった神明橋を渡る。人けのない道が続いたせいか大妻籠に来ると、五・六軒のかたまった民家が大きな集落に思われ、何となくほっとした気持になる。五〇mばかり車道を歩くと民家の看板が見え、道の両側に小ざっぱりした民家が並ぶ。道は上り坂である。道の右側に一里塚の跡と言われる盛り土の所がある。石を敷きつめた急坂の山の中の道は、幅が一・五m程である。しばらく登って行くと日あたりのよい野原へ出る。この辺りが谷の原の立場のあったところであろうか。道が下りになり、右手が開けて来て、どうがめ沢の木橋を渡る。ここは、下り谷の集落の東側である。木橋を渡った所で、下から上って来る道へ出る。ここからの道は幅が広く、車の通った跡が見える。下り谷の集落は六軒で、以前は今と違い男垂川の左岸にあり、集落の手前に白木改番所が置かれ、茶屋も二、三軒あった。その後、寛延二年(一七四九)四月、小山の沢の蛇抜けの被害にあって、番所は一石栃(いちこくとち)に移された。なおも土道を登る。所々家があり、お休処がある。日のよく当たる道を登っていくと、左道端に倉科祖霊社がある。倉科左衛門尉時元は松本城主小笠原貞慶の家臣で、主君の命で関白になった豊臣秀吉に祝い品として金銀製の鶏や蚕、太刀などを持って大坂へ向かう途中、持物に目をつけた郷士や人足のにわか山賊に女滝の上の細道で襲われ命を落とした。その時元の霊をここに祀ったものという。毎年四月三日に近くの人たちが集まり、お祭りが行われている。今は養蚕の神として参詣する人も多い。この辺りは山の北側を道が通っているが、南側の山はなだらかな上に木立が低く、日あたりのよい道である。少し上り坂となり、やがて、道が山手の方と川の方へ下る道に分かれる。江戸時代になって、ずっと低くおりて川を渡る道を通っていたが、幕末になって山ぎわを通る道に付け替えられたという。その分かれ道に庚申塔と宝暦三年(一七五三)の名号碑が並んで立っている。
 だらだら道を下り、滝見橋を渡って左へ折れると二つの滝がある。滝に向かって左側が男(雄)滝で、県道に近い方が女(雌)滝である。この滝の近くでは江戸時代中期からしばしば山崩れが起き、その度に洪水に見舞われた。ことに宝暦年間(一七五一~一七六三)には崩れ落ちた土砂が下流にあった下(くだ)り谷の集落を襲い、川底が一〇m上がり、滝壺が埋まってしまったと伝えられている。女滝に向かい右上を見上げると木の枝や草の間に古い石垣が見える。これが昔作られた「かけはし」の跡であるという。石垣の上は県道になっている。この辺りは男垂川の洪水で中山道の道筋は何度か付け替えられ、「かけはし」を使っていた頃は滝の西側を通り、皇女和宮の行列は滝の東を通ったと言われている。女滝の右手に幅の狭い道がつけてあり、上の県道へ出る。しばらくは何の変哲もない舗装道路を車に追い越されながら歩く。道に沿って右手に流れているのは男垂川である。
 川の向こう岸に山ぎわから川の中へ向かって、昔の道らしい跡がとぎれとぎれに認められるが、県道の川ぞいが石垣になっていて容易に渡れない。少し行くとコンクリート橋が道に直角に架かっており、中山道の途中へ結ばれている。ここから幅一・五m程の土道が男垂川をさかのぼる格好で、曲がりくねってゆるやかに登る。道の周りはすっぽりと山に囲まれ、左手を流れる男垂川の瀬音がかすかに聞こえるだけである。左手へ少し入った樹海の中に樹令三〇〇年、胴まわり五・五m、樹高四一mという椹(さわら)の大木がそびえている。
 左手の川向こうの北斜面にシデコブシの白い花が山腹一面に咲き乱れている。道はなおも川に沿って登る。道端に苔が生え落葉がしっとりと水を含んで湿気のある道である。途中で一度県道を横切って、杉木立の中の道を西へ登って行く。やがて前方が開け、民家や田が視界に入る。