Ⅵ-9 一石栃 白木改番所跡
白木改番所跡の西右手に古い家が一軒ある。竹矢来に囲まれた庭のあるこの家は立場茶屋をしていたということである。庭から道へ張り出した松の古木は遠くからの目印になる。玄関に標札が掛けてあるが、今は誰も住んでいない。白木改番所跡の西の道を北へ進むと枝垂桜の大木があり、その根もとにお堂がある。一石栃子安観音である。安産の守り神で現在も祈願に訪れる人が多い。道は一石栃から急坂の連続で、杉・桧の木立の間を二m余りの幅で登る。「中山道分間延絵図」では立場茶屋から少し行った右手に樫大木と記し、大木の絵が書き添えてあるが、今は朽ちてしまって、その株もない。
Ⅵ-10 一石栃 立場茶屋
しばらく同じ景色が左右に続く。やがて、道は左へ大きく曲がり坂も勾配を増し、更に右へ折れると新しい石畳が目の前に現れる。間もなく馬籠峠であるが、馬籠峠へかかる道は天明八年(一七八八)に改修され、距離も近く坂も緩やかになったということが「妻籠宿覚書」に記されており、改修前の道が「中山道分間延絵図」に峠沢土橋から馬籠峠への古往還と記されている道であろう(南木曽町誌通史編)。目の前に馬籠峠の標示が見えてくる。馬籠峠の広場と今歩いて来た道の広さや交わり方がちぐはぐであり、逆に妻籠へ向かう場合、道の入口が少しわかりにくくなっている。
馬籠峠は標高八〇一m、東に開けているので妻籠宿、三留野宿の展望がきく。前方遙か遠くに白く雪をいただく山は駒ヶ岳である。峠の茶店の西に正岡子規の紀行文「かけはし記」にある「白雲や青葉若葉の三十里」の句碑が立っている。馬籠峠を下ると集落の入口左手に大きな森が見えてくるが、これは熊野神社である。西へ低く急に下る舗装した道路の両側に並んでいる家々が峠の集落である。今は所々民宿の看板も出ているが、道から見える家の造りや家の中のたたきの土間・いろりと煙でふすびた柱など昔の面影を残している家もある。
Ⅵ-11 馬籠峠
Ⅵ-12 子規の句碑
この集落は江戸時代牛方(うしかた)をしていた人の多かった所で、島崎藤村の「夜明け前」にも牛方騒動で出てくる。牛方とは牛の背に荷物をのせて運んだ人たちのことで、江戸時代農民の駄賃かせぎに始まったという民間の輸送機関で、中馬(ちゅうま)と言われているが木曽では馬より牛が多く使われた。峠の牛方は東は上松・善光寺まで、西は今渡・名古屋が主で、名古屋へは下街道を通って荷物を運ぶことが多かった。峠の集落を通り抜けた所にあるバス停から林道をおよそ四〇〇m東へ入ると馬頭観音と嘉永六年(一八五三)の牛頭観音が祀られている。また、バス停の東側の小高い所に十返舎一九の「しぶ皮のむけし女は見えねども 栗のこわめしこゝの名物」と刻まれた歌碑が立っている。こゝから先は道幅広く舗装され、何の面白味もない道を右に左にと緩やかに屈曲して一気に下る。途中、川の近くへ来て二〇〇m程昔の道の名残りが田の間にあり、それを過ぎると再び前の舗装道路に戻る。
Ⅵ-13 峠の集落
小さな流れに掛かった岩田橋を渡ると、橋のたもとの右手少し入った所に水車塚がある。碑の高さはおよそ一・五m、台石は九〇cmもある。この碑には水車塚と記した下に「山家ありて 水にうもれたる蜂谷家の家族四人之記念に島崎藤村しるす」と刻まれている。明治三七年七月一一日夜半、折坂川を止めてあった堤防が切れて裏山が崩れ、濁流が家の中に流れ込み四人が土砂の下敷になって死んだものである。その時、父義一は長野県師範学校在職中で難を免れたが、福島小学校長を勤めていた折、藤村の三男翁助の恩師ということもあって、碑文を藤村が快く引受けたということである。左右に田圃を見て少し行くと右手へ分かれる細い道がある。気をつけて見て行かないと見過ごしてしまうような分かれ道である。道は急坂となる。やがて、森の中へ入ったかと思うと、道の真中にある家の軒下を左へ迂回する。前方に馬籠の家並みが見えてくる。道は幅の狭い土道で下り坂になり、両側に畑が続く。こゝは陣場である。天正一二年(一五八四)の春、信長の亡きあと秀吉と家康の合戦の折、徳川方についた伊那、諏訪の連合軍が陣を敷いた所といわれている。県道と中山道が交わる四ッ辻は宿の入口に当たり、東角に高札が復元されている。中山道は真直ぐ西へ下って行くが、県道は南北にこれを横切り宿の北を大きく左へ曲がって宿の西の端、荒町で再び中山道を横切る。