馬籠宿

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宿へ入って最初は道の両側に民家が並んでいるが、宿の中へ進むにつれて五平餅屋・みやげ物を売る店などが多くなる。まず右手に馬籠脇本陣資料館がある。脇本陣は蜂谷家で屋号を八幡屋といい、裏にある白壁の建物が資料館である。生業は造り酒屋で、年寄役を勤めていた家である。明治の大火で家は焼けたが、文書などは焼けずに残った。
 この資料館は私設であって家具・民具などが展示してあり、往時の人々の生活を知ることができる。中でも山仕事に使う道具の多くが保存され展示してある。文書では享保三年(一七一八)の「掃除丁場往還道長間数書上帳」、宝暦八年(一七五八)から万延元年(一八六〇)の「覚え書」がある。少し行くと同じ側に大黒屋がある。大黒屋は江戸時代に酒造りを営み、木曽代官や美濃の尾張領内の金融に協力する御勝手御用も勤めていた。天明の大凶作の時、木曽代官山村家に二〇〇両を上納して名字帯刀を許された。「大黒屋日記」は一〇代目大脇兵右衛門信興が文政九年(一八二六)から四四年間書き記したものである。
 その西隣が藤村記念館(郷)である。明治二三年(一八九〇)の大火で宿場が焼けたが、焼け残った本陣、島崎家の隠居所と蔵を使って設けられ、藤村の著書、原稿、写真等五〇〇〇点が展示してある。道を更に西へ下った左手に清水屋資料館がある。藤村と親しかった清水屋には、長く村長を勤めていた原一平の父の集めたものが多いが、六代目原平兵衛の集めた尾形光琳、富岡鉄斎、小林一茶の掛軸もある。また、藤村の書状、藤村の長兄の娘で日本南画会々員の西丸小園の描いた掛軸「藤村像」と松浦観考の「晩年の藤村」がある。藤村記念館の下手の細い路地を通って宿場の裏へ出ると永昌寺の杉木立が見える。陣場の四ッ辻から右へ車道を行くと左手になる。
 永昌寺は島崎家の菩提寺である。馬籠島崎家の第一世となった島崎重通の創建といわれ、臨済宗妙心寺派の禅寺である。寺は小高い丘の上に建っている。西沢山永昌寺と刻んである石碑を見て左へ道を登ると、創建者重通、長兄島崎秀男夫妻、父島崎正樹夫妻より一段高い所に藤村一家の墓が六基並んでいる。左から次男の島崎鶏二、藤村の妻冬子、藤村である島崎春樹、幼くして亡くなった藤村の三人の女児島崎みどり、孝子、縫子である。永昌寺の本堂は寛政年間[一七八九 一八〇〇]に再建されたものであり、藤原時代末の作と見られる阿弥陀如来像、また、円空作の聖観音像がある。裏山の自然を生かして作ってある本堂の裏の庭は桑山和尚の作といわれ、百年余の年月を経ている。永昌寺の前から車道を二〇〇m程西へ行くと、道の右手、田の中に五輪様と呼ばれる七基の五輪があり、一基に梵字が刻んである。義仲の異母妹に菊姫がいて、義仲が滅ぼされた後、頼朝に許されて馬籠に住み、こゝに法明寺を建て尼となって、亡き兄の冥福を祈り続けたと伝えられている。五輪塔のある所は比丘尼(びくに)寺の地名も残っていて、菊姫がこの地で没したとも伝えられている。その後、法明寺は廃寺となり、今は田圃になっている。
 車道を更に行くと、まごめ自然休養村センターがあり、休養村案内を行っている。まごめ自然植物園は湿原と岩場を利用した自然のまゝの植物園で、二〇〇余種の植物がある。
 馬籠の宿は坂である。道の両側共家々の西に石垣を築いて土を盛って平らにし、街道に面して向かい合って家が建っている。天保一四年(一八四三)馬籠宿の家数は六九軒、人口は七一九人であった。馬籠は土地が高いため水の便が悪く、今までに何回となく火災にあった。寛永一六年(一六三九)、安政五年(一八五八)と大火があり、明治二八年九月二五日の大火で六五軒が焼け、宿場の様相が一変した。藤村の生家である本陣もこの火事で隠居所と土蔵を残して焼失した。「宿悪しく 山坂難所なり 泊者少なし」と江戸末期の道中記に記してあるが、中津川や妻籠の泊りが多く、馬籠で泊る旅人は少なかったと思われる。また、大田南畝(なんぽ)(蜀山人(しょくさんじん))は、享和二年(一八〇二)春、大坂から江戸へ中山道を旅し「壬戌紀行」を書いたが、その中で馬籠について、
 
 駅舎のさま ひなびたり 飯もりてうる家に 御支度所といへる札を出せり 又、うり銭ありなど書きつけたり 宿のうちより坂を上る
 
と記している。
 宿の西の端は車屋坂と呼ばれる急な坂道で、かぎの手に曲がる枡形になっている。車屋坂と名づけられたのは、水車があったためである。車屋坂の枡形を曲がって、まっすぐ下るとバスの発着所があり、みやげ物を売る大きな店が道をまん中にして並んでいる。中津川・落合方面から上って来たバスは、ここが終点になる。駐車場には定期バスの外、日本各地から訪れた色とりどりの美しいバスが並んでいる。駐車場からの見晴らしは一段とよく、東から南へかけて富士見台、恵那山と高い山なみが面前に仰ぎ見られ、自分が実際よりも高い所にいるように感じられる。目を西から北へ転ずると、足もとから田が広がり、道に沿って民家がとぎれとぎれに続くが、遙かかなたは空間となって開けている。中津川から濃飛乗合バスが馬籠まで登り、こゝからは、おんたけ交通が南木曽へと通じている。

Ⅵ-14 馬籠宿枡形

 落合の宿まで道は下る一方で、小川を越すと右手に馬籠城跡がある。天正一二年(一五八四)秀吉と家康の争いで、家康に味方した諏訪・伊那の連合軍が侵入して攻撃を加えたという。
 馬籠城は孫目城とか丸山城と記したものもある。城の守将は馬籠の本陣島崎氏の祖先である島崎重通であった。バスの駐車場から馬籠城跡までの道の近くには大きな石があったらしく、「壬戌紀行」によると、
 
 土橋をわたりてすこし上れば、畠の中にいくつともなく大石よこたはれり 昨日見し烏帽子石 母衣石のごときはよのつねなり 大きなる長櫃を荷ひすてたるごとき石多し 右のかたに樋に水をひきて水車をめぐらせり 坂を上りて曲りて馬籠の駅あり
 
とある。左手に見える鳥居は荒町の諏訪神社である。鳥居の前に島崎正樹の記念碑が建っている。正樹は藤村の父で、「夜明け前」では青山半蔵である。記念碑は明治四五年(一九一二)に建てられたもので、碑文には島崎氏の先祖や正樹の経歴、人となりが刻まれている。
 荒町の中ほどから南へ向けて、一時期中山道が通じていた時があり、新道と呼ばれていた。寛政年中[一七八九 一八〇〇]に樋口好古が編修した「濃州徇行記」には、
 
 陽古義に 落合刎橋長一七間巾二間三尺 延享元子年道替 刎橋やみ 今の新道に小橋四ヶ所になれり
 
とある。落合川に掛かっている刎(はね)橋(下桁橋、落合大橋)が洪水の度に崩れ通行に差しつかえたので、寛保元年(一七四一)より三〇年間難所のない湯舟沢経由の新道に付替えられ、更に延享元年(一七四四)には小橋を四ヶ所新道に架橋した。荒町の新道へ入る辺りは家が古い道へ張り出して軒下に近い所を通っており、田畑の間はあぜ道同様となり、山間へ入ると落葉がぎっしり積み重って、谷とも山道とも区別のつかない小径が続いている。ようやく林を抜けて目の前が開けると、中央自動車道で道が切られてしまう。道路下のコンクリート管を中腰でくぐり抜けると草が一面に生えるあぜ道となり、それも途中でなくなってしまう。そこここに見える家は新道の集落である。ここからはアスファルトの車道になっていて、真っ直ぐバス道へ伸びている。湯舟沢経由の新道は道筋が悪く一七町も遠回りのため、明和八年(一七七一)から元の十曲峠を通る道に戻り、長さ八間、幅二間の高欄付の刎橋も完成した。