新茶屋

1058 ~ 1065 / 1729ページ
旧道へ戻ると、中山道は荒町から下りになり新茶屋に至る。新茶屋に著しく視界の開けた所があり、落合の街並を越して白く光る木曽川、そして、少し高く高峯山が見える。ここから見る秋晴れの日の夕焼けは殊に美しく、西の空一面が赤く染まる。夏から秋にかけて、この道を歩く人が多い。その多くは落合から上って来る人である。老夫婦あり、家族あり、若者の一団が言葉を交わして馬籠をめざして歩く。新茶屋は岐阜県と境する長野県にある。また、新茶屋は宿場と宿場の中間にあることから立場の茶屋があって、名物のわらび餅を売っていた。新茶屋の集落の西端の家の前、道の左手に島崎藤村筆による「是より北 木曽路」の碑がある。裏には「藤村記念堂落成十周年記念のためふるさと友の会々員一同にて建之 碑文の出典-先月御手紙のこと、神坂入口の碑の文字のことはよろこんで引き受けませう-一九四〇年七月六日 麹町六番町より(六八才)昭和三十二年十一月十七日 財団法人藤村記念郷理事長 安藤茂一書 石工中根乙一」と彫ってある。藤村の碑に向かって左の方、少し離れて芭蕉の句碑が建っている。碑面には、「送られつ送りつ果は 木曽の龝(あき)」とあり、裏は「天保十三年壬寅年水無月建之 裏梅園古狂」と刻んである。松尾芭蕉が中山道を旅したのは貞享五年(元禄元年・一六八八)で、「更科(さらしな)紀行」の旅である。
 新茶屋の西端の家と隣り合わせて一里塚がある。中山道宿村大概帳(道中奉行が管轄下の全宿駅について調査をし編纂したものと考えられ、成立年代は安政以後と思われる。)によると、「左右之塚共 中津川宿地内」とあるので、ここが県境であるが南側の塚はない。北側の塚も当時と比べると土盛りが低い。塚の上に石碑が建っている。

Ⅵ-15 新茶屋 一里塚

 大久手へぬけるバス道と分かれて左手へ入ると落合の石畳がある。
 長い間木の葉に埋まっていたのを補修したものである。今では何か所も地元の人々によって石が敷きつめられているが、茶屋より東の幅四m、長さ四〇m余の部分が比較的もとのまゝの形になっている。そのうち三か所が昭和三九年、岐阜県史跡に指定された。さらに同四二年中山道石畳保存会が発足した。この石畳から大久手用水の橋までは、山の中の道で、辺り一帯樹木で埋めつくされている。

Ⅵ-16 落合の石畳

 用水を越して最初の民家の東を左手へ一〇m程入った所に、医王寺の鐘鋳り場の跡があり、桜の木の下に馬頭観音が祀ってある。梵鐘鋳造は寛保二年(一七四二)であるが、昭和一八年に、戦争に供出されたので今はない。瑠璃山医王寺は古くは天台宗の寺であったが、天文一三年(一五四四)に再興され、浄土宗に転じたという。尾張領の学者である松平君山が宝暦六年(一七五六)に著わした「濃陽志略」に「薬師堂蔵行基所刻之像」とあり、本尊の薬師如来像は行基の作と伝えられ、一名山中薬師といい虫封じの薬師として各地に講ができるほど名が知られていた。江戸時代には傷によく効く狐膏薬が名物で、十返舎一九の「木曽街道・続膝栗毛」にも出ている。
 
 サアサアお買いなさってござりませ 当所の名方 狐膏薬 御道中お足の痛み 金瘡 切疵 ねぶと はれもの 所嫌はず一つけにてなほる事受合ひ 外に又吸膏薬の吸ひ寄せる事は金持の金銀を吸ひ寄せ 惚れた女中をもぴたぴたと吸ひ寄せる事奇妙希代 御たしなみお買なされ。
 
 孤膏薬は、本陣井口善兵衛の子善右衛門を分家させて十曲峠に住ませ、その製造販売をさせたものである。孤膏薬の看板は井口宅に三枚、医王寺に一枚今でも残っている。

Ⅵ-17 狐膏薬の看板

 医王寺の本堂は大正一五年(一九二六)に改築されたが、境内には古いものが数多く残っている。安永一〇年(一七八一)・享和三年(一八〇三)の灯籠、文化一四年(一八一七)の名号碑、文政二年(一八一九)の馬頭観音があり、嘉永六年(一八五三)建立の芭蕉句碑「梅が香に のっと日の出る 山路かな」は、この地における美濃派の存在を知らしめるものである。
 勾配の急な坂道を北へ向かって下るが、途中で西へ折れる。左手の山の中へ向かって石垣を積んだ道らしき平坦な土地が南へ続いているが、これは湯舟沢の森林鉄道の軌道の跡である。湯舟沢国有林の木材は馬車によって搬出されていたが、昭和一三年六月落合川駅から馬場渡・向山・山中を通り湯舟沢川に沿って熊洞を抜け、中切から味噌野へ通じる六・九kmの湯舟沢軽便鉄道が敷かれて木材を運搬した。昭和二九年五月の豪雨で線路が災害を被り、それがもとで鉄道は廃止されトラックに切替られた。
 なお坂を下って落合川へ出るが、落合川にかかっている橋を下桁橋とよんでいる。橋けたを重ねるように少しずつ川の方へせり出して、両岸からつなぎ橋脚のない木造の橋であった。この橋について
 
 <中山道宿村大概帳>
 字下桁橋 高欄付
 一 板土橋 長拾八間 横弐間
    但 両端長拾壱間 土橋
      中 長七間  板橋
  右弐ヶ所尾州ゟ普請有之
 <濃州徇行記>
  欄干橋あり 長十七間巾二間なり 大道方役所より修築せり 両岸より材木にて組上げ見事なる橋なり
 
 また、村明細帳(正しくは美濃国恵那郡村明細帳で別の名を村鑑(むらかがみ)帳という。明治政府が地方の実情を詳しく知るために村役人に提出させたもので、明治元年から同五年のものがある。)によると、下桁橋の懸替修覆等は名古屋藩より来て行っていた。文政年間[一八一八 一八二九]に至って仕用金を年四〇両で村方へ請負わせていたが、物価高騰で己年より一〇〇両ずつ頂戴するようになったと記している。下桁橋は少し前までコンクリートのピーヤが立った木造のつり橋であったが、今はコンクリートの永久橋にかけ替えられた。
 下桁橋の西たもと近くに「[右飯田道左御嶽善光寺]」の石の道標が明治二九年(一八九六)に立てられたが、途中から折れて地下へ埋められており、文字が判読しにくい。

Ⅵ-18 下桁橋西の道標

 明和八年(一七七一)中山道を新道から十曲峠へ戻した折、医王寺の北から落合川へ向かって急坂で下るつづら折の道をやめ、北へなだらかに迂回させたのが今の道である。昔のつづら折の道は山の斜面に今も形を残しているが、道幅も山道と見違える程狭く、至る所、道の真中に木が生えていて、それと言わなければわからないようになっている。寛政元年(一七八九)尾張領主第九代徳川宗睦が江戸から帰国する際に調査させ記録した「中山道筋道之記」には落合村について次のように記している。
 
  落合村
  一 信州馬籠ゟ濃州落合宿迠壱里五町と唱候
    信州境ゟ落合本陣迠廿壱町三十九間
   但右同所ゟ宿口迠拾九町五拾一間
    右同所ゟ高札場迠拾九町三拾八間
  一里塚  落合村地内
    此所ゟ往還登り右之方ニ苗木城山見ゆる
  鷹之巣山 同村地内一里塚あり
       往還登右之方半道入
  苗木領高宗山  右同所二里半程入
       但観音堂あり 往還上り右之方ニ見ル
  中之かや 落合地内往還通
       百姓家壱軒
  十石峠  右同断百姓家六軒
  山中薬師
  浄土宗      同村地内十石峠
   瑠璃山医王寺   往還ヨリ左之方
  大久手  同断百姓家六軒
      拾七間 十石峠ゟ右え六丁入
  板橋  [長八間半巾弐間壱尺] 片刎橋也
   信州境ゟ此所迠馬籠ゟ下り坂拾町八間
  右橋際ゟ往還登左之方ニ十八年以前馬籠宿江之古道有り
 
 <壬戌紀行>
  石まじりの道をゆくゆく坂を上り 山中坂を三四町ばかりまかりてのぼれば 落合の駅舎ははるかなる下に見ゆ此あたりより道いよいよけはしく爰を十斛峠といふ 左に狐膏薬あり 右のかたに薬師堂あり 行基菩薩の作なりといふ 此所に札たてゝ是より東北湯船澤兼好法師の古跡なりとしるせり かの「思ひたつ木曽のあさぎぬあさくのみ」ときこえし所なるべしとゆかしく 輿かくものにとふに 湯ふね澤は橋より一里あり 熊が洞立岩などいふ所ありとかたれり 猶松の林の中を上りゆくに 右は山左は谷なり むかふに近くみゆる山あり す山と云 草木しげれど大きなる木なし 道に大なる石多し 又石まじりの坂をのぼる事長し 左に人家一戸あり きつねかうやくをひさぐ ゆくゆく道をのぼりて立場あり 同し膏薬をうる看板に十曲峠とあり 爰に 此所美濃信濃国境と書たる榜示あり かゝる国境を石にもゑらずしていさゝかなる木をしらげて書つけしもおかし

Ⅵ-19 今の十曲峠


Ⅵ-20 木曽路名所図会の十曲峠

 落合村の山村方庄屋をしていた塚田家の控帳である塚田手鑑によると、美濃と信濃の国境論争は元禄一一年(一六九八)に始まって、同一三年に一里塚先小ミゾ境で決着をしている(市史中巻別編一〇七一頁)。
 下桁橋の西のたもと辺りは滝場という地名である。宿村大概帳によると、滝場に高さ二間二尺、長さ三間、横七尺の高札場があったという。