与坂

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やがて道は南へ向きをかえ、上り坂になるが、途中で現在使用の国道一九号線が横切り、更にこの近くにいくつもの道が集まっている。そこを過ぎると長い急坂となる。国道の近くは新しい住宅が道の両側に軒を連ねているが、少し登っていくと家がなくなり、立ち止まってふり返ると眼下に落合の家並みが、少し遠くに木曽川と落合ダムが一望できる。やがて坂の頂にたどり着くと一軒の家があり、道を南北に横切る用水があって水の流れる音がする。頂上を真中にして、登りと下りのある坂である。与坂の頂に越前屋という立場茶屋があり、名物の三文餅を売っていたといわれている。

Ⅵ-23 与坂立場の休み石(俗称)

 
 <中山道筋道之記>
 与坂 落合地内落合より登り坂二町五拾間下り坂三町五間百姓家九軒
  落合宿端ゟ右坂中迠五町四拾間
 同所立場  茶屋壱軒
  落合宿ゟ此所迠九町廿八間
 塚田手鑑にも「与坂茶屋迠九丁二十八間」と記してある。
 <濃州徇行記>
  ここを与坂とて余程上り急也 これも下与坂上与坂とわかれ 此山上より中津川宿の町並又苗木の城もみゆ
 <壬戌紀行>
  一里塚をへてよ坂といふ坂をのぼる 曲折して長し よ坂をまがりて下れば左右に畑あり 又坂を下りて小流あり 板橋をわたり左をみれば水車あり 又坂を上りて落合の驛にいれば左に薬師堂あり 驛の中に例のたてにながるゝ小流あり
 
 塚田手鑑によると「延享二年 尾張藩 与坂の白木改番所をつくり与坂番所と称す」とあり、上金へ移る前は与坂にあったことが「濃州徇行記」にも記してある。与坂の西方に苗木城跡(昭和五六年指定国史跡)が見える。
 与坂の坂を下り、中津川との境である三五沢川を渡る。宿村大概帳に「此橋落合中津川境橋」と三五沢橋(長二間・幅壱尺)が境であることを示している。橋を渡って間もなく左手に道よりも少し高くなっている荒地があるが、こゝに子野の一里塚があった。北側は道に沿って家が並んでおり、南北共に一里塚の跡形もなく行過ぎてしまう程である。こゝの急坂をまき坂と言う。坂の途中左手に年号不詳の馬頭観音が建っている。坂を上ると頂を過ぎた所の右手に覚明神社がある。天明五年(一七八五)木曽御嶽を開くため、覚明行者が中山道を通り、ここにあった茶屋に泊った。後、御嶽開山の行者を記念して「覚明霊神」を祀ったものであり、現在も参詣する人が絶えない。

Ⅵ-24 子野の一里塚跡


Ⅵ-25 覚明霊神

 左手の森は神明神社である。この辺りのようすについては、
 
 <中山道筋道之記>
 一里塚 中津川地内百姓家一軒
  落合宿端ゟ此所迠拾弐町五拾二間
 子野  同断百姓家拾軒
  神明一社 同断往還登左之方三拾間入
 子野坂 中津川村地内
  落合宿端ゟ此所迠拾五町三拾九間
 <中津川宿明細書上>(幕府の道中奉行が各宿に書上げさせた宿内や隣宿との間の街道についての明細、享和元年(一八〇一)書上)
 当宿ゟ先宿之間 壱里塚壱ヶ所
  但シ左右共ニ当宿地内字三五沢 立木榎
 <濃州徇行記>
 一 支村子野は上金の東北にあり これも街道筋の左右に民戸散在し 高は四十一石七升七合 家十二戸 男女五十人あり 田地石多し 地蔵(堂)川を越せば街道北へふる此あたり坂多し 又川あり即子野川と云 此さきは落合の与坂也
 
 子野の地蔵堂川の東たもとに石造物群がある。文政五年(一八二二)の徳本上人の念仏碑のほか、元禄七年(一六九四)・寛延三年(一七五〇)・天保一二年(一八四一)の庚申・地蔵・観音像などが数多く祀られている。境内には枝垂桜の古木があり趣を添えている。道は左へ曲がりながら緩やかに下り地蔵堂川を渡る。橋を渡るとすぐ左に第一用水が地蔵堂川へ流れ込んでいるのが見える。道は右へ大きく曲がり短い急坂となる。

Ⅵ-26 地蔵堂の石仏群