<中山道筋道之記>
上金 同断百姓家拾九軒
落合宿端ゟ此所迠廿二町九間
同前白木改番所 [錦織木曽川材木市] 両役所支配
落合宿端ゟ此所迠廿五町程
<濃州徇行記>
一 支村上金と町分をはなれ坂を東へ昇る街道筋にあり 高六十七石八斗九升九合の処にて家は十八戸男女八十五人あり 民戸左右に散在し小百姓ばかり也 此あたり畠多し 皆山畠なり
此さきに白木番所左の方にあり 此番所は十四、五年以前落合村の与坂より引き此に築けり
<壬戌紀行>
左右ともに畑のある所をゆくに 左に中津川泉(ママ)御番所あり 本家お六櫛栢屋忠兵衛といへる招牌あり これよりゆくての駅舎ごとに お六櫛をひさぐもの多し いづれが本家といふ事を知らず 坂を下りて板橋をわたる 小流なれど河原に石多し 松のなみ木のもとをゆくに人家あり 本家秘傳狐膏薬といへる札あり 是又お六櫛と同じく所々に多し
台地上の平坦な道を西へ歩く。少し行った所で国道一九号線バイパスの近代的な幅の広いコンクリートの道で切られ、地下道をくぐって向こう側へ出る。また元の平坦な道に戻り、両側に軒を並べた道を西へ向かう。家と家の間から背後に広がる田園風景が垣間見られる。道の左手に文政六年(一八二三)の秋葉権現の常夜灯がある。
寛文三年(一六六三)以前の中津川宿へ入る道筋は明らかでないが、次の二説がある。一つは子野から子野川に沿って北へ下り、途中で子野川を越し、中川町の現存する旧道を通って、今の中央本線を越して中川神社の前へ出て、加藤瓦店の前を通る道である。他の一つは上金で、中津高校のグランドの東下を通り中川町の旧道へ出る道である。どちらの道にしても中津川から落合へ行くのに、上金台地に急坂で登るのを避けて北野へ迂回しているため、平坦で歩き易いことはいいが遠回りであるので、寛文三年(一六六三)に茶屋坂を改修して、上金から茶屋坂を下り淀川町から新町へ通ずる道につけ替えられた。
中津川宿明細書上によると「宿内御並木」として町端より落合境まで、九三二間の間、両側に並木があったと記してある。中津高校から上金の方へ二〇〇mほどの所、道の北側に白木改番所があった。今は当時からの井戸を覆う小屋がある外、毎年秋が深くなると山茶花(さざんか)の老木が花をつけ、道へはみ出すように姿を現わす。
Ⅵ-27 上金 白木改番所跡
上金の西の端、中津川の市街との境に旭ヶ丘公園がある。斜面をうまく利用した樹木の多い公園で、中津川市街地が一目で見渡せる位置にある。公園には江戸時代の多くの石造物が残されている。元文三年(一七三八)・明和八年(一七七一)・文政一一年(一八二八)・天保一〇年(一八三九)の灯籠、元禄六年(一六九三)・宝永八年(一七一一)・天保五年(一八三四)の石仏・庚申塔・二三夜塔などがある。ほかには、はだか武兵衛碑、芭蕉句碑、標示石、御神灯などがある。また、本陣の市岡殷政、問屋年寄間秀矩の歌碑、庄屋肥田九郎兵衛の句碑がある。
Ⅵ-28 旭ヶ丘の石仏群
Ⅵ-29 はだか武兵衛の碑
茶屋坂の南にある東円寺には国指定重要文化財である木造薬師如来坐像がある。
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