中津川宿

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茶屋坂は上金から白山町の通りまで一続きの曲りくねった道であったが、昭和三九年、国道一九号線が中津高校の下を通るようになると茶屋坂が切られてしまい、渡道橋が国道をまたいで道をつないでいる。
 茶屋坂をおりた所に一本の松の木があって、遠くからでも見られたが、枯れたため切られた。松が生えていた同じ段の所に寛政元年(一七八九)の常夜燈、文化二年(一八〇五)の庚申塔、天保六年(一八三五)の二十三夜塔がある。文化三年(一八〇六)幕府の命により道中奉行が編修した「分間延絵図」によると、これら石造物と道をはさんだ向かい近くに高札場があり、南に向かって高札が建っていた。昭和六三年街道文化の広場として、整備された。

Ⅵ-30 茶屋坂の馬頭観音


Ⅵ-31 茶屋坂の石塔

 
 <宿村大概帳>
 一 宿高札場壱ヶ所 宿東入口字茶屋坂ニ建有之 右高礼文言左之通 墨入之儀ハ尾州ニ而取扱来 外高札文言野尻宿同断ニ付略之
 <中津川宿明細書上>
 一 御高札場  [長弐間壱尺巾壱間余]
   東入口坂ニ御座候
   御普請尾州様ゟ被仰付候
 <中山道筋道之記>
 茶屋坂 中津川宿入口落合より下り坂同町
   大明神一社  往還登右之方一町程入
   天神宮一社  右同断左之方二町程入
 
 道は淀川町で小淀川と淀川を越すが、駅前通りの改修で川の流れも見え橋もあった淀川は道の中へ埋められてしまった。新町通りと緑町線と交わるすぐ東に淀川に掛かる橋があったが今はない。
 
 <宿村大概帳>
 字淀河 高欄付
 一 板橋 長四間三尺 横弐間
 
 道は新町へ入る。中央相互銀行の前に前田青邨画伯生誕之地の碑が建っている。青邨は本名を廉造といい、明治一八年(一八八五)中津川の乾物商の家に生まれた。一六歳で上京し梶田半古の塾に入り青邨の雅号をもらった。昭和二六年東京芸術大学日本画科教授となり、昭和四二年法隆寺金堂壁画再現模写の総監督を勤めた。寛文三年(一六六三)以前の茶屋坂を通らない中山道は、中川町の加藤瓦店の前から白山町の車道のもう一つ山ぎわを通って可知医院の北へ出、妙見町の中を通り抜け、マルヤ塗料店の表から山品うなぎ屋の北へ出て長瀬薬局の西へ出て、新町の通りへ出る道であった。道の北側の西尾電器の店になっている場所は、維新期に活躍した間秀矩の孫である間孔太郎の家のあった所で、太平洋戦争前までは造り酒屋をしていた家である。そのななめ前の建物は公益質屋から商工会議所になっていた。
 道に面して建っていた常夜灯(文化二年・一八〇五)は西宮神社の境内に移されている。新町のこの辺りは中村から昭和町へ下りて来た中津川第二用水が四ッ目川を越して、花戸町から新町通りをつっ切って花菱町へ下り、あちこちにあった水車の動力源になっていた。道は四ッ目川の四ッ目川橋を渡る。四ッ目川は今のように両岸に石垣が積んであるのではなく、土手になっていて、道が水面近くへ下り、板橋を渡って再び土手の道を本町へ上って行くようになっていた。また、今の主婦の店の対岸の石垣下にあたる辺りは河原町といい、長屋や銭湯が流れに覆いかぶさるような形で建っていた。江戸時代の四ッ目川橋は板橋で、長さ五間六尺、横九尺と宿村大概帳に記してある。四ッ目川の西は今と同じ本町で、本陣・脇本陣・問屋があり中津川の中心であった。本町へ入って間もなく上小路・下小路と中山道から南と北へ伸びる道があった。道の南側にあるコンクリートの大きな建物は電報電話局で、西角に明治天皇行在所の碑が建っている。ここに脇本陣森家の居宅があり、明治一三年明治天皇の行在所になった所である。道をはさんで北側に本陣があった。下駄屋の店を入った中庭に明治天皇御膳水の井戸の碑が建っている。道をへだてて西にある卯建のある家が庄屋をしていた肥田九郎兵衛の家がある。その前の道を北へすすみ、突き当たりを左へ折れて三〇m程行くと、右手にかつての中津川村の郷蔵がある。大きさは七間三間で粗壁がぬってあり、下の方に腰板が取り付けてある。郷蔵は集まって来た年貢米を領主山村氏のいる木曽福島へ運ぶ前に一時保管しておく所でもあった。駒場、手金野両村にも郷蔵はあったが、この近辺で現存するのは、ここの郷蔵だけである。郷蔵の前の市岡家は本陣の敷地の一部である。
 
 <濃州徇行記>
 此宿町並は寅の方へさし町の長十町七間あり 町の名は下町 横町 本町 新町 淀川とつづけり 家数百七十五戸 男女千二百廿七人あり 是は豊饒なる処にて商家多く町並作りよし 定旅籠は三十戸ほどあり これも農商を兼つくりよし 此村一体高に准じては男不足なる由 しかし散田などはなしと云へり(第六章第二節(三)中津川の商業参照)
<濃陽志略>
一 問屋場二ヶ処の内一戸は居宅 一戸は長屋にてつとむ 修覆は問屋共手前よりす 荷付小屋なし
<中津川宿明細書上>
寛政十二申歳
一 宿内人別 千弐百三十人
        男 六百廿弐人
        女 六百八人
   付箋
    文化八未年  男 六百十九人
           女 六百七人
一 宿内惣家数 百七十五軒
  内
 本陣  [凡建坪弐百八十三坪門長屋玄関附]  本町 市岡長右衛門
 脇本陣 凡建坪百廿八坪   同  森 孫右衛門
 問屋場 弐ヶ所
  但シ 上十五日 源蔵本陣門長屋ニ而相勤申候
     下十五日 孫右衛門居宅ニ而相勤申候
 
 <宿村大概帳>
 天保十四卯年記
 一 宿内人別 九百弐拾八人
   内 男 四百五拾四人
     女 四百七拾四人
  同
 一 宿内惣家数 弐百弐拾八軒
  内
  本陣   本町 壱軒
  脇本陣  同  壱軒
  旅籠屋     弐拾九軒
          大  八軒
   内      中  八軒
          小 拾四軒
 一 人馬継問屋場 弐ヶ所  但 弐ヶ所共本町
 
 中山道から本陣へ入る道角より西へ百mほど行くと、右手へ入る小路がある。小路をすすんで行くと突き当たりが大泉寺跡である。天正四年(一五七六)から火災のあった文久二年(一八六二)まで、ここに建っていた。今は北野に移転している。中津川宿内で中枢の地は本町である。文化三年(一八〇六)の「中山道分間延絵図」によると、大樋(おおどい)用水(第三用水)と思われる南からの用水が本町の通りの中央へ直角に入り、その角に当たる道の真中に宿を火災から護る秋葉神社が祀られていた。用水は、しばらく道の中央を西へ流れ、大泉寺まで行かない内に北へ折れ曲がっている。
 本町を西へすすむと突き当たり、左へ曲がって、すぐまた右へ曲がるかぎの手が枡形である。これまでに妻籠、馬籠、落合のいずれの宿にもあり、その位置は妻籠、馬籠、中津川は京方にある。この枡形のある所は横町で、道の両側に卯建(うだつ)のある屋根が見られる。横町の南端を南の方へ伸びるのが川上(かおれ)道であるが、その入口の左手に慶応元年(一八六五)の「恵那山上道」と記した石の道標が建っている。道標の角の奥に西生寺がある。西生寺は浄土真宗京都東本願寺の真末寺である。恵那山道(川上道)を二〇〇m程南へ入った右側に稲荷神社がある。この辺り一帯が寛文四年(一六六四)北野富田から移転した代官屋敷のあった所であるが、旧国道一九号線が東西に走り、代官屋敷のあった八幡町が南北に二分された。横町の南角を右へ曲がると道はやゝ下りになる。左側に卯建のある古い家が見える。入口の軒下に杉の葉で作った酒ばやしがあって、造り酒屋であることがわかる。間(はざま)酒造店である。

Ⅵ-32 恵那山道の道標


Ⅵ-33 横町枡形のうだつ

 この家は江戸末期、志水屋の屋号で岩井助七が住んでいた所である。
 道を下って行くと右手に津島神社の小祠があり、「安政三辰三月吉日 銭屋舛吉 松田屋伊助 車屋太右衛門」の三人の世話人の名を刻んだ灯籠がある。その小祠の南をまっすぐ西へ中津川に向かってのびているのは現在の道であるが、中山道は、この小祠の北を、急な坂を下って中津川の河原へ出ていた。川の名前としての中津川は、江戸時代は川上(かおれ)川、又は河上川と呼び、宿・村の名として中津川を使っていた。
 下町の中央橋の下は、かっては黒沢川の流れていた所であるが、尾鳩にある本州製紙の原料・製品を運ぶための軽便鉄道が敷設された。軌道は明治四〇年九月に完成しているが、創業当時は軽便軌道を馬力でトロッコを曳かせていたが、大正一三年からはガソリン、ディーゼル・蒸気機関を使用した。現在はトラック輸送に切り替えられて廃線となり、軌道の敷地は駅の西、元営林署の官舎があった付近から市役所までは専用歩道(遊歩道)とし、ミニ中山道に整備された。市役所から本州製紙までは田圃の中を走る一般の道になっている。
 川上川に掛かっていた中山道筋の橋を中津川大橋といい、長さは十二間、幅二間であったことが元禄三年(一六九〇)尾張領内書上げでわかる。但し、中山道筋道之記では「川上川橋但板 長拾八間 巾壱間五尺」、又、明細書上では「西入口 河上川 板橋 壱ヶ所 但シ 長弐拾四間弐尺 巾弐間 付箋 文化五辰七月流奈故 仮橋ニ而御座候 右地頭山村甚兵衛 千村平右衛門立合普請所ニ御座候」宿村大概帳では、「字川上川 一土橋 長弐拾四間弐尺 横弐間是ハ地頭山村甚兵衛 千村平右衛門立合普請仕来」と各々記している。しかし、この大橋は寛政元年(一七八九)中津川で三〇余戸流出という大洪水の折に落ち、寛政四年(一七九二)の出水で流出し、寛政五年(一七九三)の大雨で落ち、文化五年(一八〇八)の大水害の時流失、嘉永六年(一八五三)には仮橋が流失する等度々災害を被っている。
 
 <壬戌紀行>
  中津川の驛の中を たてにさかひて小流あり 驛舎のさまにぎはゝし 右の方の人家に金龍山あんもち 松屋といへるあり 左に菊屋といへる家ありて楊弓など見ゆ 二八うどん蕎麦といへるもあり 瀬戸物の陶器多し 小流をわたる橋あり 石多し 右に扇屋といふありて人参康済湯という薬あり 左に本家岡崎つもといへる招牌を出せり 十八屋といへる家三戸ばかり見へたたり 駅を出て寺坂といふを上る事五まがりして後のかたをかへり見れば 中津川の驛目の下に見をろさる すべて此わたりより家居のさまよのつねならず 屋の上には大きな石をあげて 屋根板をおさふ 寒甚しければ瓦を用ゐがたく 壁の土もいて落るにや 板をもてかこめり 右に小社あり 人家一戸あり 名物なには餅とくさ餅といへる札を出せり わびしきさまなれば味ふに堪ざるべし
 <濃州徇行記>
  此村は町分 中村 実戸 子野 上金 北野 川上と七ッに組わかる 高千三百石余の村なれば四至広大なり 此町分は即宿内町並へつけり 高わけは六百十五石八斗三合なり 町分の地は平衍にして膏腴の地也 宿の入口に川上川流れ村北にて木曽川へ落つ 寛政元酉の六月洪水の時川上川水氾濫して田廿四「陽五」町の間砂石押入不毛の地となれり此宿町並は「陽丑」寅の方へさし町の長十町七間あり 町の名は下町、横町、本町、新町、淀川とつづけり 家数百七十五戸 男女千二百廿七人あり是は豊饒なる所にて商家多く町並作りよし 定旅籠「陽屋」は三十戸ほどあり これも農商を兼屋づくりよし 此村一体高に准じては田力不足なる由 しかし散田などはなしと云へり