千旦林

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打杭橋を渡ると右手に八幡神社がある。参道に杉並木の名残りを表す杉の巨木が二本立っている。
 
 <美濃御坂越記>(一七六五)
 八幡宮 村の中程街道ノ北ノ方松山ノ内ナリ 社内木像十三体 作僧保沢 観応三辰九月(一三五二)社壇南向街道迠大門道ニテ鳥居アリ 東ノ方ハ神主屋敷 西ノ方ハ大智山願成寺別当天台宗屋敷有
  普門院 大善院 玉円坊 下ノ坊 仙福院 妙音庵 長善庵 政所
  右八ヶ所ハ田地ノアサ名ニ有 神主別当ノ両屋敷ハ森ノ内故ニ田畑ニナラスシテ石垣ノ古跡アリ 遠山氏繁昌ノ節迠山城国男山ノ宮殿ニ模シテ結構善美ノ荘厳ナリシカ 天正二年阿寺落成ノ時ニ坊舎焦土トナリ神領没収セラレ神主社僧逃走シ殿舎破壊シテ今ハ本社一宇残レリ 社名帳美濃国恵那郡三座ノ内 坂本神社ハ此社成ヘシ 郡内ニ坂本ト云フ所外ニナク由緒ノ社見エス
 <新撰美濃志>
  「八幡社」は中山道の往還より一町ばかり奥に鎮座 拝殿の鳥居 末社ニ祠等厳麗なり
 
 江戸時代、八幡神社前に同神社に付属する願生寺があった。明治の排仏毀釈でこの寺は廃寺となり、その跡に、明治六年「松風校」が開設された。明治一一年「千旦林小学校」と改称され、同三四年中平へ移された。神社の森の北の丘陵に鎌倉期から室町期の窯跡が多数あり、一部が県の史跡指定を受けている。
 道は鍛冶屋平へ入る。幸脇宅の前を「札の辻」と呼ぶのは、この辺りが千旦林村の中心であり高札が掲げられていた名残りである。「中山道分間延絵図」では道の北側、八幡神社の入口から僅かに西へ行った所に高札と記してある。東巣川にかかる大藪橋を渡る。橋のたもとに文化三年(一八〇六)の馬頭観音、文政七年(一八二四)の弥勒菩薩の二基が建っている。保古山から流れ出る東巣川と六地蔵川の間の峰を城ヶ峰(じょうがね)と呼んでいる。城主吉村源斉とその子源蔵が一六世紀末頃まで構えていた千旦林城の跡である。
 
 <宿村大概帳>
 往還通並木
  村内五拾間   千旦林村
 往還通掃除町場
  千旦林村往還長千七百五拾三間  居村町場
 
 道は再び平坦になり、新道と分かれ中山道の旧道を中平に入る。道幅はぐっと狭くなり昔の面影を残す家々が道に面して建っている。これらは、どれも道の南側であることがおもしろい。右手に弘化三年(一八四六)の常夜灯がある。
 また、すぐ左手の岡に准胝観音が祀られている。この観音様は争いを鎮め、病苦を癒し、悟りの道を歩ませる功徳があって、地元では「じゅんてん様」と呼び、春に祭りが行われる。道は舗装されてはいるが道幅はさほど広くなく、周囲の景色に大きな変化がなく、昔の様子をよく残している。
 三津屋にある宝篋印塔は将軍塚と呼ばれているが、これは美濃代官を勤めた岡田将監の将監塚が訛ったものと言われている。
 三津屋の常夜灯は、天保六年(一八三五)のもので観音講中と記してある。三津屋は立場のあった所で繁沢家がその業務を営んでいた。中平から三津屋への沿道は、家はまばらであり道に面して建っている。道路は起状が激しく、道幅は一様に狭い。

Ⅵ-39 中平の秋葉灯籠

 
 <宿村大概帳>
 一里塚 壱ヶ所 木立[左松右無之]
   但 左右之塚共千旦林村地内
 <明細書上>
 一 当宿ゟ前宿之間壱里塚壱ヶ所
   但
   右 左右千旦林村地内三ツ屋 木立榎
 
 「中山道分間延絵図」にも一里塚と記し、左右一対の絵が書いてある。塚は昭和三五、六年まであったが、今は消滅してしまい林家の桃畑となっている。三津屋をぬけると中洗井へ入るが、その間はわずかである。道の右側に竹藪があり、左は山に続く林となり、家の見えない風景が出現する。道を西へすすむ。「中山道分間延絵図」では右手に字坂本立場と記し、そこから茄子川村になって坂本坂を西へ下る。

Ⅵ-40 三津屋 一里塚跡

 <中山道筋道之記>
 坂本立場  同村之内家数五軒
  中津川宿場ゟ此所迠壱里拾五町[千旦林茄子川村]之境
 同所坂  中津川ゟ下り坂六拾間程
 <壬戌紀行>
  けわしき坂をのぼりて坂本の立場にいこふ 爰は大井村千旦林の堺なり 坂を下れば左右ともに赤土の小山なり 田ある所は田の水まで赤く見ゆ 此あたりの畑に猪よけの木多し
 <濃州徇行記>
  此村は中山道筋にありて長二九丁一三間也 村中狭くして左右山近し 茄子川村の内坂本よりつゞき街道筋小溝を以て界とし民戸つゞき坂本と云処あり 是は立場にて即ち村の入口也

Ⅵ-41 坂本立場跡