Ⅵ-43 大井宿本陣跡
<中山道筋道之記>
此助郷高壱万五千二百六石 村数十四ヶ村
<徇行記>一万千二百六石 [一、二五八石尾州領九、九四八石他領]
一 恵那郡大井宿ゟ大湫宿迄三里と唱候場所
本陣ゟ本陣迄三里七町四十三間
宿端ゟ宿口迄三里三町四十二間
高札場ゟ高札場迠三里廿一町拾壱間
惣家数 百八拾七軒
宿家数 百四軒
禅宗
稲荷山長國寺 宿内往還登左之方二町程入
武並宮 三社四殿 同断左之方八丁ほと入
禅宗
東日山東禅寺 同断八丁程入
傘岩 同村内木曽川端奥戸と申所ニ有之
紅岩 往還登右之方宿内より三十丁程入
脇本陣と問屋の建物は現存しないが、長く庄屋を勤めた古山家の建物は残っている。本町へ入って道は西へ進む。右手に明治天皇行在所の碑が建っている。市川旅館の手前で北へ直角に曲がる道へ入るのが中山道であるが、市川旅館のはすかいに桑名屋の建物がある。江戸時代に旅籠屋であったというが、その後、魚屋にかわり建物もかなり改造されていて、道に面した一部分だけが昔のまま残っている。
大井宿の用水路は本町用水と小路川用水の二本が主要なものとして使われていた。この桑名屋の西側に阿木川から引込んで来た小路川用水が流れ、魚も棲み、子どもの格好の遊び場であったが、両用水共コンクリート板により蓋がされ、車の通れる道になってしまった。
市川旅館の東を北へまっすぐ行くと市神神社である。この通りは竪町である。明治五年の大井村明細帳に「神社十一ヶ所 内 市神社 社内 東西五間 南北八間 但正月七日・六月七日祭礼」とある。毎年一月七日は、七日市と呼ばれ、市神神社の祭礼で、市神神社の前の通りだけでなく、本町から橋を渡った東銀座を通り駅前まで市がたち賑やかである。神社の境内、正面に向かって左側の灯籠は享和三年のものである。道は神社の前で左へ曲がる。そのまま西へすすむ。小沢商店の前で再び左へ曲がると茶屋町である。本町から続く道へ出て右へ折れると阿木川にかかる大井橋を渡る。
<中山道筋道之記>
阿木川橋 [長廿七間半巾壱丈] 大井村之内
<壬戌紀行>
又ほそき流の橋をわたりてゆきつゝ、大井川の板橋をわたり大井の驛につく。
大井宿の西のはずれを北へ流れる川は、大井川とか阿木川と記されているが、今も同じ阿木川で、橋は大橋と呼んでいる。当時この板橋は欄干の付いた橋であった。大井宿を過ぎ、中央本線開通によって繁華街となった東・西銀座通りを通って西へ向かう。道の右手にある中神薬局の西側の溝が大井町(恵那市)の西端で、ここから長島(おさしま)町(恵那市)である。少し行くと左手に森川病院があり、一軒おいた西隣りに新酒屋・本酒屋の屋号を持つ庄屋をしていた旧家がある。本酒屋は道に面して開き門を持ち、立派な庭と奥座敷がある。少し西へ行くと川があるが、旧中野村を流れる川で永田川である。長さ五間半、巾七尺の板橋があったが、今はコンクリートの長島橋になっている。長島橋の東の辻は中野村の高札場であったところで、今はその辺りに寛政八年(一七九六)の秋葉大権現の常夜灯が建ち、観音堂がある。
<中山道筋道之記>
恵那郡
中野村 往還通家数七十軒
大井宿端ゟ右村入口迄五丁三十三間弐尺
<壬戌紀行>
砂石ましりに流るゝ水にかけし板橋をわたりて中野村あり、右のかたにたてる鳥居は産土の神なり
永田川にかかる長島橋を渡ると緩やかな登り坂になる。やがて左へ大きく曲線を描いて登ると五叉路に出る。中山道を西へ向かって右の道から、県道恵那白川線・旧国道一九号線・現国道一九号線(恵那バイパス)へ通ずる最も新しい道路・旧国道一九号線の恵那市街地方面へ通ずる道路、そして、今歩いて来たこの道の五本である。恵那白川線は二〇〇m程北へ行くと中央自動車道のインターへ通じる。現国道一九号線へ通ずる道は、もとは永田道という小道で、永田村を通り野井村へ出る道であったが、最近この交叉点から国道一九号線に通ずる車のための道路に拡幅された。
五叉路から西へ旧国道一九号線を行くと、すぐ左へ入る小径がある。旧国道一九号線の南側を平坦に蛇行する道である。道幅が狭く、道端に家もなく往時の道のようすをそのまま残しているようである。左手のこんもりした森は神明神社である。道は硯水の地点で旧国道一九号線に合流する。
硯水は西行の伝説を残す地である。この辺りに碑らしい数個の石があり、その中の一つに「陽炎や こゝもふし見〓(杖)の跡 八十八翁 奚花坊」と刻んである。奚花坊は本名を青木寿石といい、美濃派俳諧の以哉派一一世宗匠で、流門の振興をはかって、しばしば東濃一円を巡杖している。
Ⅵ-44 西行硯水の碑
道は旧国道一九号線から右へ入り、田の中を北へすすみ、中央本線の線路を横ぎる。更に田の中をすすみ田違川へ出る。この辺りから先は舗装がきれて土道が続く。昔の橋は、今の橋よりもっと上流で川を渡っていた。この橋は、道のすすむ方向に斜めにかけられており、筋かいのようであったので、すじかい橋と言われた。
<中山道筋道之記>
神明宮 一宇 往還登左之方六七間入
大井宿端ゟ此処迄拾弐町八間
筋違橋 但板 [長五間半巾弐間] 中野村地内
大井宿端ゟ此処迄十六丁四十四間
田違川からの道は中央自動車道ができたため、昔の道が消滅してしまった。今は田違川から中央自動車道の橋下を通って、急坂の途中で中山道に入る。この辺りからしばらく、両側に木の生い茂る山の中の狭い土道がつづく。
やがて、道の右手にこんもりとした小高いところがあり、周囲に比べてやゝ大きな木が固まって生えている所が西行塚である。
Ⅵ-45 西行塚
<中山道筋道之記>
西行坂 大井ゟ登り八丁程
西行塚 往還ゟ右之方六七間入
大井宿端ゟ此所迄十九丁三十二間
<壬戌紀行>
松の間をゆきて六七町も下る坂を西行坂といふ 左の山の上に櫻の木ありて西行の塚ありといふ 圓位上人は讃岐の善導寺にて終りぬときくに こゝにも塚ある事いかゝならん
大井宿から大湫宿へ向かう中山道の西行坂は登り坂である。
西行坂の中腹の道の右手に馬頭観音二基と順拝碑、西行塚の道標がある。道からはずれ、右手の小山へ通ずるやっと通れる程の山道を登ると頂が西行塚(昭和三四年指定県史跡)である。こゝには大きな五輪塔と歌碑が二墓、芭蕉の句碑が一基建っている。急な山道を通らないで、中山道の坂道を更に上った所に新しい道路が取り付けられ、何の苦もなく頂へ行けるようになっている。
坂を登りつめると平坦な道が続く。道の両側は木が茂り、さえぎられた向こうがどうなっているか定かでない。思ったより幅の広い土道に去年の落葉が落ちている。間もなく道の両側に槇ヶ根一里塚(昭和三四年指定県史跡)が見えてくる。左と右に塚が残っている。風雨にさらされ、あちこち崩れてはいるが、手の加えてない本物の一里塚は妻籠からこちらでは初めてである。左の塚の西側は南西に開け、視界が広がる。
<中山道筋道之記>
一里塚 大井宿端ゟ此所迠廿二町五十八間
槇ヶ根立場 家数五軒 [壱軒岩村領中野村四軒岩村領竹折村]
大井宿端ゟ此所迄廿九町廿三間此所ゟ少し東往還登右之方ニ七本松 往還登左之方ニ子持松有之両所共謂なし但七本松ハ木曽茂仲見帰り三松と俗ニ言い二本□同所七本松ゟ左之方岩村領野井村高キ山見ル
但此所ゟ野井村へ壱り程
同所ゟ右之方ニ当り岩村領恵那郡久須見村之内
下海道 往還登左之方槇ヶ根立場ゟ一丁程西ゟ入 但名古屋通
大井ゟ岩村領竹折村江二里
<壬戌紀行>
一里塚をへて人家あり巻かね村といふ、追分の立場といふは木曽といせ路の追分なるべし 奚にもお六櫛をひきてひさぐ、なをも山路をゆきゆきて又一里塚あり
一里塚を過ぎて、尾根伝いの平坦な道を西へすすむ。槇ケ根立場から西へ凡そ一〇〇m程行った所に下街道の分岐点があって、休憩地として店もあった。立場の中央から南へ分かれる小径があり、東海自然歩道に使われている。分岐点には石仏群が建っていたが、今は神社の前に移されている。この辺りの道は農道として道幅も広く舗装され、昔の姿は見られない。工場の前で舗装された車の道から右へ入る。ここからしばらくは道幅も狭く、両側に木が茂る平坦な道である。ゆるやかに曲る道は木立の中に消えているように見え、曲り角まで来ると先へ続いている道である。
Ⅵ-46 槇ケ根追分の道標
道の左側に「右 西京大坂 左 伊勢名古屋道」と彫った石の道標が、道のない木立がとぎれた所にぬっと建っている。ここは恵那市の今宿追分で、中山道と別れて南へ下るのが下街道である。下街道は竹折・宿・釜戸・荻之島・大島・町屋・中切・公文垣内・大岩・名滝・鶴城・木暮・清水・一日(ひと)市場・水ノ木・戸狩・山野内を経て土岐川を渡り、飛刎坂を登って肥田・高山・池田から内津峠を越して名古屋へ通ずる道である。下街道は、名古屋へは中山道より五里(一九・六三五km)も近い最短距離であるため、商人荷物の輸送路として盛んに使われていた。また、一名「お伊勢道」とも呼ばれ、信州方面からの熱田・伊勢参りの道、名古屋方面からの善光寺・御嶽詣りの道として庶民に親しまれていた。
下街道の分岐点には道標を兼ねた常夜灯が二基建っていたが、今は国道一九号線沿いにあるダンボール工場の前に建っている。
道幅は殆ど同じで土道であるが、ごろごろした石はなく歩き易い。下り坂にさしかかり、少し行くと馬頭観音が一基建っている。
その右の小高い丘が姫宮通行の行列が休憩した御殿屋敷跡と伝えられている所であるが、人里離れたこのような山の中に、しかも、いつだれが寄るかわからないこのような所に、どんな御殿が建っていたであろうか。道は両側に茂る灌木だけが見える山道で、一面に「はさみ草」が覆う道に変わる。道は急坂となって下る。「みだれ坂」と言い、坂を下りた所に橋がある。「みだれ橋」である。
<中山道筋道之記>
乱橋坂、竹折村地内大井ゟ下り坂三丁程
大井宿端ゟ此所迄一り五丁十八間 近年いわい坂と唱候
祝ひ坂峠ゟ右之方ニ駒ヶ嵩見ル
同前左之方高山釜戸村山見ル
<壬戌紀行>
うつ木原といふ坂を下りて石はしる音すさまじき流あり わたせる橋をみだれ橋といふ みたらしの坂といふを上る事五六町にして 山のいたゝきより見れば 左右の山ひきく見ゆ やゝくだりゆきて右の方に石の灯籠ふたつたてり いせ道と石にゑれり こゝに假屋して伊勢太神宮に奉納の札をたつ 道のべに一重の櫻さかりなるは遅櫻なるべし
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