中津川宿の地形

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江戸時代に宿が本町にできたことについては、次の三つのことが考えられる。
 (1) 中世以来本町付近に町家が成立していて、そこを宿にした。
 (2) 東山道坂本駅といわれる駒場宿(駅)を移転させた。
 (3) 慶長の初めに本町付近一帯に宿をつくりあげた。
 この三つは共に確証に欠けるが次に述べることから、(1)が妥当と考えられる。中津川宿の成立を考える前に近世に至るまでの居住地の変遷を辿ってみたい。
 縄文時代の遺物が間ノ根・斧戸・上原・松田・花房・後田・中村から出土しており、この時代の居住地が後田を除き現在よりかなり高い所にあったことがわかる。
 弥生時代になり、水の用途が飲料水を主とする生活用水だけでなく稲作に必要になってくると、水が得られ易い場所へ居住地が移動したものと考えることができる。水が豊富にあっても耕地より低い所であったり、常に氾濫を繰り返すような川は適当ではない。水利に関する技術など現在とは比べものにならない当時であれば、中津川も四ツ目川も灌漑用水の対象になりにくく、もっと小さな川や湧水が使われたであろう。このことから、水田地帯と推測され得る所は、黒沢川の流域、法道寺川と実戸の湿地帯、北野の熊野井・杭瀬川の流域・淀川・小淀川の流域・米田川の流域・後田川の流域・下町・下河原・すすきのの沼田を含む地帯、これらに加えて手賀野・安森・中村・恵下の湧水がある地帯である。これらの総てが水田化されて、その付近に居住地があったかは明らかでないが、人口の増加と共に水田に適する土地を求めて低地へ拡がってきたことは容易に考えられる。
 中でも黒(畔)沢川は縄文時代の居住地に近く、水量も豊かであり、流域面積も広いことから北野の熊野井・杭瀬川と並び、おそらく水田耕作の最も早くからひらけた土地と言うことができよう。黒沢川は前山の麓、北西に端を発し間ノ根を流れ下り、八幡神社の南へ出る。現在の黒沢川は、西へ流れて中津川へ直角に流れ込んでいるが、かつては現在と流路がやや異なり、八幡神社南を西へ下りながら北側の水田に水を浸し、国道三六三号線を越して中津川の河原に拡がる字川原、中川原の水田を潤しながら井の上、井の下と上下に分かれる小段丘崖の下を崖に沿って北へ下る。字寺の下、下モ川原(志毛川原)の水田が続き、元営林署貯木場の北の端辺りで中津川へ合流していた。

Ⅵ-56 八幡神社森西一帯 (手賀野方面より)


Ⅵ-57 熊野井と杭瀬川流域 (北野)

 土師(はじ)器は古墳時代から、それ以後にわたって長く使用された厨房用具・容器の土器であり、屋内祭祀用にも用いられた。土師器が使われた時代の住居跡は湿地沼地、湧き水のある所、小川の近くなどで、一般に低湿地で、水田に適した土地の近くである。中津川市の土師遺跡は宮町、税務署裏、昭和町、八幡町、中村、間ノ根、桃山、一中の南、手賀野などである(市史上巻)。このことから古墳時代以後の居住地が扇状地の中程まで拡がって下りて来ていることがわかる。水田の所有地が定まって来ると居住地の動きも少なくなってくる。
 中世の居住地は五輪塔の位置を一つのめやすとして考えることができる。現在、五輪塔がある場所は、松源寺の跡、会所沢の楯プレス前の住宅、上宿の溜池と水路の間、上原の東崖下、手賀野諏訪神社、福昌寺、手賀野市川家の前の畔(あぜ)、青木稲荷境内と西の墓地、西小学校々庭の南、津島神社の藪の中、字巾下、石屋坂の北、梅坂、横田元綱の墓、法道寺の第一用水の下、中川神社の西、市役所へ入る信号の西の五斗蒔という屋号の家の岩の上、鉄道の北加藤瓦店の土取場、国道一九号線から子野川に沿って下る北の藪の中である(第八章中世の廃寺参照)。
 長い年月の間に付近にあったものを一か所に寄せ集めた所もあるが、いずれも概ね標高三〇〇mで、居住地がかなり下って来ている。
 これら五輪塔は殆ど周りより一段高い所にあって、正面に水田が広がる位置にあることが多い。このように中津川においても古代から中世にかけて水田の適地はほゞ固まり、居住地も定着して集落を形成していたと考えられる。
 しかし、その後中世から今日まで約八〇〇年の年月の間、自然も又少しずつではあるが絶え間なく変化し、姿を変えていると考えねばならない。例えば、中津川右岸の大恵製紙の基礎を造成した時、土中から室町時代のものと思われる骨壺が掘り出され、ここに墓があったことが実証された。当時の墓地は小規模であちこちに点在していたであろうが、中津川の氾濫を被りにくい小高い所にあったと考えると、水田は今よりもっと低い所にあり、中津川は更に低い所を流れていたであろうと推測される。
 このことは、度々の大水で中津川の川底が上がり、桃山橋の上手にあった大泉寺は危険が感じられるようになったので一段上の本町へ移り、引き墓したことでもわかる。
 江戸時代になって、貞享元年(一六八四)の「中津川村検水帳」に黒沢、森下、島田、野くろ、井の下、川原、中川原、下河原の地名がある。今の市役所付近を中心に島田社宅から四ツ目川の合流点、更に北野の大泉寺へかけては沼田の混ざった広い水田地帯であった。大恵製紙付近に元禄の墓を見ることができる。寛政元年(一七八九)の出水で中津川流域で三〇余戸流出とあるのは、段丘崖下にそれ以上の民家があったことを表わすものである。信長以後、秀吉、山村と続いて恵那山と川上山の木を濫伐した結果度々蛇抜けを起こし、洪水を繰り返して中津川が埋まり河床が高くなったのである。
 人口が増加してくると水田に適した土地を求めて更に低地へも居住地が拡がってくる。しかし、川ばたの低地は洪水の時危険であるから、直接水田耕作をしないものは水田のすぐ近くに居住する必要もない。洪水の心配がなく、四方へ通ずる道に近く、日当りがよく、良質な飲料水が豊富に得られる場所が最適の居住地として選ばれる。
 傾斜が急な四ツ目川は近世以後の記録に残る洪水だけでも一二回を数え、度々流路を変えたと言われる。例えば、西生寺の西側を流れていたこともあったとか、また、宗泉寺の上から中村へ抜け、八幡神社の前を通って中津川へ流れ込んでいたこともあったと伝えられる。中村では地下一〇数mまで大きな石が埋まっていたり、水田造成にその石が掘り出され、畔に使われているのが宗泉寺裏あたりから中村にかけて帯状に続いているのを見ることができる。
 文化五年(一八〇八)と昭和七年(一九三二)の四ツ目川の氾濫を見ると被害を受けていない最も安全な地帯として老槙(おいまき)町と八幡町が挙げられる。また、清水町一帯は水田の方々に清水が湧き出ていた。
 ここは扇端部にあたり伏流水の湧き出る地帯である。中山道宿村大概帳に「宿内呑水ハ堀井を用ゆ」とあり、現在、この辺り一帯、堀井戸の深さは二mから五mと浅くて良質の水が得られる。前記の検水帳によっても、この辺の地名に泉町、清水垣外、ふろめん、ふろの上というように清浄で豊かな水に関わりのある地名が出てくる。今の〓は元岩井助七宅で志水屋と号していたが、志水は清水に拠るものであろう。

Ⅵ-58 堀井戸の深さ <分布図>

 更に、中世の豪族で江戸初期の村分代官を勤めた丸山久右衛門が住んでいたのが大樋(南小学校前)の近くであり、寛文四年(一六六四)北野富田にあった代官所を移した場所が八幡町であったことからも、この頃の居住地として最高の地であったことが裏付けられる。
 このように居住地として最も適した所が本町付近であり、そこに町家が成立していたことは推測に難くない。
 中津川村に宿を置いたことについては、大久保長安の美濃支配政策が基と考えることができよう。即ち、木曽の入口に当る中津川を交通の要所として固めることが必要であった。中津川村は、西に当地方以東で最も川幅の広い中津川があり、川を隔てて手賀野段丘がある。段丘崖は高さが九mから一五mあって、為政者にとっては格好の防壁であった。中津川の東側は小段丘崖になっており、高さは三mから九mあって、段丘上は中津川の洪水から免れることができた。更に東へは四ツ目川、淀川、小淀川が並び、その東に上金段丘がある。この段丘崖は高さが二三mから三五mもあって最も高く、宿の境を示す地形となっている。北は、中津川が流れ込む木曽川が谷を深くえぐって流れ、自然の要害となっている。
 段丘崖は巾(はば)と呼ばれ、住民にとっては草刈場や水汲場となって大切な場所であった。崖下には所々湧水があり、良質の地下水が豊富に出て飲料水を求めて民家も集まるようになった。

Ⅵ-59 段丘崖(巾)の測量図


Ⅵ-60 段丘崖(巾)の位置

 宿は旧黒沢川を西境として、下町、横町、本町、新町、淀川町で茶屋坂の下が東境の全長は一〇町七間である。扇端に沿って大きな起状もなく、宿としては最も多い東西の向きに近い方角で道が走っている。
 本陣、脇本陣、問屋場は一番安全な微高地に設けられている。「中山道分間延絵図」(文化三年)を見ると宿の道のまん中を用水が通っている。

Ⅵ-61 中津川宿の用水 (中山道分間延絵図による)

 この用水は、宿の防火が目的であり、物を洗うことも流すこともできなかったといわれている。道の中央を流れていた用水のこん跡はもとより、流れこむ道の周辺の流路さえ定かでないが、第三用水の水が使われていたと考えられる。
 第三用水は、大樋用水とも呼ばれ、大永年中[一五二一 一五二七]に開削されたと言われ、中村の梅坂の下で黒沢川の水を取ったもので南小学校の北を流れ、今は税務署裏で四ツ目川へ流れ込んでいる。宿へは、この途中から北へ流れ下っていたものと思われる(第四章第一節用水参照)。
 寛文年中になって、妙見町から白山町へ抜けていた中山道が茶屋坂(寺坂)を越す道筋につけ替えられて、中山道が本町から茶屋坂の下までまっすぐになった。