江戸以前の宿駅制度

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戦国末期、中津川は伊那の小笠原氏と木曽谷の木曽氏の侵略にあい、天文年中までその配下にあった。天正二年(一五七四)木曽義昌は武田勝頼の軍に従って中津川地方に侵入、小笠原氏に代わって中津川地方を治めるようになった。
 翌年、信長が奪回に成功すると義昌は信長に傾き、自らは木曽谷における勢力の安泰を保ってきた。江戸時代になって、中山道の木曽谷一帯及び美濃国内の宿駅制度の整備は大久保長安によって行われ、慶長七年の伝馬制の実施をもって完成と考えられる。
 しかし、宿駅の設置は天文二年(一五三三)木曽氏が木曽谷において行っており、伝馬制についても、天正一八年(一五九〇)関東へ移封された木曽氏に代り、犬山城主石川光吉が代官となり九月木曽谷各村へ、伝馬、道橋修理などの定書(定勝寺文書)を出していて、当時伝馬制があったことを示している。
 さらに伝馬制が江戸時代以前から既に実施されていたことは、次の史料でも明らかである。