文禄二年九 廿六みたけよりをち合まで十二里 ヲク手(大湫)ニ馬ナキニ付カマト(釜戸)ヘマハル 太島と云所迄五里四十三文太(太島)より大井迄三里 卅文 井(大井)より中津川まで廿一文 中(中津川)より落合迄十一文 大井ニテ御酒 食籠上ル 馬三匹借申代物壱貫文被下 はたこ不成まゝ木ちんニスル 九十二文雑用馬共ニ 矢大ニ相 町兵へノ便所 小太(小貫大蔵頼久) 中若へノ書中憑 せきた夫(信濃新史料)
大和田重清は、常陸佐竹家の臣、朝鮮役に出陣のため前年末、主人佐竹義宣に従って肥前名護屋に在った彼が文禄二年(一五九三)八月十八日同地を出発、山陰道を京都に出て、中山道を経由して佐竹氏の居城常陸水戸に帰国する迄、前後四十余日間の道中記よりの抜粋である。
次は、慶長六年(一六〇一)一〇月、伏見から奥州米沢へ行くのに中山道を通った時の日記である。慶長六年の中山道の宿駅制定にあたって、木曽一一宿と共に指定されたものであると思われる。