慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原戦に勝った家康は、西軍方の大名の領地を没収して東軍側の諸将に与えた。これによって、西軍方が多かった美濃国の支配者は大きくかわったが
(1) 東海道と共に軍事上、政治上に重要な役割をもつ中山道及び伝馬制の整備
(2) 良材を産する木曽谷一帯と木曽川水系の一円支配をはじめ美濃国内の要地を含む幕領の増加をはかる。
の二つが、戦後処理の重要事項として、徳川家康の腹心で関東以外の幕領の代官頭になった大久保長安によって進められた。
長安の命令で働く手代には、遠山友政(苗木城主)、山村甚兵衛(道祐、錦織代官、木曽代官、知行所中津川宿村外)などがいた。
道祐は慶長六年(一六〇一)には妻籠の六郎左衛門に対して、問屋任命の手形(南木曽町誌・資料編一五八)を出している。これは宿による継立ての確保をねらったものだから、道祐が木曽谷における中山道の整備に力を入れた一例であろう。
慶長七年二月には、御嵩宿に対して「朱印なく無理に人馬継立てをせよと強迫するものは、郷中の者がでて、これを殺してもよいし、それができぬときは主人の名前をきいて届け出よ」という異例の伝馬掟朱印状が下付されている(県史通史編近世下)。
これは中山道の整備に対する幕府側の熱の入れ方を示しており、同年三月には、ほぼ同文の伝馬朱印状が木曽代官であり、中津川宿村知行主である山村道祐に出されているから、関ヶ原戦後直ちに着手され、慶長七年三月には中山道に幕府による伝馬制が実施されており、中津川宿も宿の一つとして伝馬のしくみができていたものと推定される。
その後
○慶長 九年(一六〇四) 大湫宿整備(又は指定)
○慶長一一年(一六〇六) 細久手宿仮宿として設置
○寛永一七年(一六四〇) 土田宿は太田宿と合宿
○元禄 七年(一六九四) 伏見宿新設
という動きを示して、中山道美濃国内約三〇里に一六宿が形成されていったであろう。特に東美濃の九宿(鵜沼、太田(土田)、伏見、御嵩、細久手、大湫、大井、中津川、落合)の宿つくりと中山道の道筋の決定、それに約二二里に一一宿をおいた木曽谷の宿つくりについては長安と道祐の役割が大きかったであろう。