天正一二年(一五八四)、妻籠城を飯田、高遠、諏訪の諸将の攻撃から守った山村良勝のもとに中津川の丸山久右衛門がいたが、関ヶ原戦以前から中津川には有力な地侍がいて、山村と深い関係があったと考えられる。また、中津川宿の地形で考察したように、江戸時代の初めには中津川は「宿」形成にふさわしい町家ができていた。
このように町家を形成し、地形上からは木曽谷の入口に位置し、伊那、飛驒への口元になる中津川を
千三百石 道祐隠居料
として、木曽代官の山村良候(道祐)に与え、そこに「宿」を置いたのは、大久保長安の幕領支配政策の一つである。
かくして道祐は、中山道宿駅の整備と木曽山、木曽川支配を重視する大久保長安の政策の忠実な実行者として、知行地中津川を宿駅として整備をしていったものであろう。