宿の町並は、西の京都側から東の江戸側に向って下町、横町、本町、新町、淀川(町)、茶屋坂(町)と続き、町の長さは、寛文三年(一六六三)以降、幕末まで一〇町七間であり 道幅は三~四間であった(市岡家文書)。尾張徳川家の家臣 樋口好古が寛政年間[一七八九 一八〇〇]に著した。「濃州徇行記」には、「此宿町並は寅(濃陽徇行記は丑)の方へさし町の長十町七間あり 町の名は下町 横町 本町 新町 淀川とつづけり 家数百七十五戸 男女千二百廿七人あり 是は豊饒なる處にて 商家多く 町並屋づくりよし……」と書かれている。徇行記には茶屋坂(町)の記載がないが、中津川宿本陣の宿泊記録「御休泊留記」には、茶屋坂の某(家)などと度々書かれているのをはじめ、他の文書にも茶屋坂のことが書かれている(文書には茶屋坂町とは書かないで、茶屋坂の某(家)と書いてあり 本来は「町」をつけてはいないが、坂名と区別するため(町)を書くことにした)。
中津川宿は、四ツ目川 川上川(中津川)がつくった扇状地の扇端部分にあって、川上川の河岸段丘の上につくられた。中津川宿に入るには、川上川の川原から中山道を東に向って段丘を登る。取り付いたゆるやかな斜面の通りが下町である。江戸時代の下町は、現在の下町通りより低いところを通っていたが、今は通り抜けができなくなっている。この斜面を登りきって左に曲ると横町である。この通りは短く北に七〇mほど進むと、再び右に直角に曲って本町に入る。
本町を東に進むと、中津川電報電話局があるが、同局の少し西側から東あたりが、中津川宿の町並では海抜標高が一番高い。それより東は四ツ目川に向って下り坂になっており、四ツ目川の川床近くまで道が下がっていた。この四ツ目川までが本町である。
江戸時代の宿駅の果すべき主な任務は、前の宿駅から運ばれて来た公私の荷物や旅客を、その宿に備えてある人馬の背にのせて、次の宿駅まで継ぎ送ることと、継立てした荷物や旅客・馬などを休泊(休憩と宿泊)させることであった。そのため、本町の町並の一番高い部分に、宿駅の中枢である二軒の問屋と本陣・脇本陣があり、村の庄屋家もあった。このように、宿駅の設置には水害などの災害を避けるために一番条件のいい場所を選んで宿駅の中心としたものと考えられ、事実四ツ目川近辺や下町などをはじめ、他の町並では江戸時代に度々水害に見舞われたといわれている[市岡家の伝承]。
問屋二軒、本陣と脇本陣は相向きあってたち、これらの両側には旅籠屋が並び宿駅の中心地であった。その本町から横町、下町には旅籠屋、馬宿、茶屋、食べ物を商う店を中心にして、その他の商店、職人の家が並んでいた。本町から下町にかけては、宿駅の任務を遂行する人馬の継立と休憩、宿泊を中心とした街であったということができる。
四ツ目川の橋を渡って、東へ坂を登ると道はやや北にゆるく曲っている。淀川までが新町で、本町より新しくできた町であるが、西新町の成立などは不明である。東新町ができてくるのが寛文年間[一六六一 一六六七]といわれているからそれ以前の成立であろう。東新町の成立については項を改めて考察する(茶屋坂の付替と町並の拡張の項参照)。Ⅵ-62図の中津川宿町並略図や文化二年(一八〇五)完成の「中山道分間延絵図」(口絵参照)及び幕末の「中津川宿略図」(市史中巻別編付図)を見ると、新町が一番長い町並で、商業によって伸展していった町であろうと思われる。淀川を渡ると小淀川までが淀川(町)である。それより東が茶屋坂町であり、やや登り坂の町であるが、突きあたりの段丘崖までがこの町である。中津川宿の東端になる。この町並の北側から、北へ向って苗木・飛驒高山への道があり、現在も飛驒道への入口はそのまま残っている。この道の入口から東は北に道が曲がって傾斜の強い坂道を登り始めるが、すぐ東南に曲がる。その北側に高札場が南面して設置されていた。急な段丘崖を登る坂が茶屋坂である。ここを登りきると中津川村の在郷の一つ上金(村)である。地蔵堂川を渡ると、同じく在郷の子野(村)であって三五沢まで続き、ここまでが中津川宿を含む中津川村であった。
Ⅵ-62 中津川宿町並略図