枡形と番所

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中津川宿の町並は、中山道に沿って一筋であったが一直線ではなかった。町筋の途中に〓型に曲げてつくられた通りがあり、そこに家が建ち並んでいた。この町並が横町であるが、この通りは七〇間弱(約一三〇m)の短い町で、すぐに右へ直角に曲って本町通りに入ってしまう。この本町に至るのに〓と、二回も直角に町並が折れ曲がっているのは、故意に曲げたもので、宿駅の入口から、本陣・脇本陣のある宿駅の中心部を直接見通すことができないようにしてあり、これを枡形(ますがた)といい人為的につくられたものである。
 しかし、中津川宿の場合、西の入口から宿駅の中心部を見通せなくても、東の茶屋坂から一目で俯瞰(ふかん)できるのではないかという疑問もあるが、中山道が茶屋坂を通るようになったのは、寛文三年(一六六三)の茶屋坂道の付け替え後のことである。中津川宿の設定された時点では、旧妙見町 逢坂三昧 中津高校北側へ迂回していたので、茶屋坂道の上から俯瞰することはできなかったと思われる。また宿内の通りは一直線ではなく、四ツ目川の東でやや北側に曲っており、茶屋坂上から本町通りを一直線に見通すことはできなくなっている。
 上使、大坂城代、京都所司代などの幕府役人、大坂御番、二条御番などの幕府の軍団、諸大名などが、中津川宿で宿泊する場合、主君の宿泊する本陣では、中門を入ったところには定番所が置かれていたが、本陣の所々にも五~六か所の番所をおき、篝火などをたいて不寝の番が行われた。また非常には本陣の西側にある大泉寺が退避所となり御退道も決められていた。
 幕府の上級役人や御三家、それに彦根井伊家、加賀前田家などが中津川宿に宿泊する場合には、中津川宿村の領主である尾張徳川家の郡奉行や太田代官所から役人が出張し、或いは中津川村の地頭山村甚兵衛の家臣や中津川代官が会所や番所に詰めたり、夜廻りをするほど警備は厳重であった。
 中津川宿の中枢部は、宿の西を川上川に、東は四ツ目川にはさまれた扇状地に立地し、さらに宿の東端に上金、松田の段丘崖が切り立ち、天然の要害の地に設置されていた。更に宿に枡形をつくることによって、幕府役人や諸大名とその軍団が休泊する場所として、宿駅は戦場の宿営を基本としているから、防備的な町並を意図的につくったと考えられる。「中川旧記」には、「……自身番東西入口ニ壱ヶ所ヅツ 夜番所六ヶ所……」と中津川宿の東西の入口に自身番所が置かれ、夜になると夜番所が置かれたことが書いてある。この夜番所六か所は、下町 横町 本町 新町 淀川町 茶屋坂町の各町内に一か所ずつあったと推定でき、これらは貞享三年(一六八六)一二月 道中奉行から宿継ぎで回送されて来た「御触(回状)」の第一項に「頃日道中筋火事繁ク候間 弥火之元可念入候 惣而九月ゟ翌三月迠は於宿々最前も相触候通り 自身番壱町に壱ヶ所ヅツ懈怠なく相勤 夜中も壱町切に夜番之者度々相廻シ可申事」(市岡家文書)とあり、毎年同内容の道中奉行の御触が回送されていたから、それにもとずいて中津川宿でも自身番所と夜番所が置かれ、「火の用心」と「怪しき者」を、宿内に置かないよう警戒する役目を果たしていた。
 宿の出入口の木戸の有無については、宿絵図、中山道分間延絵図などにも描かれていないし、文書でも明らかでない。しかし市岡家文書の文久元年(一八六一)「萬諸用留記」に、和宮下向の宿泊諸記録が書かれているが、その中に「宿両端 木戸 弐ヶ所 新規」と記されている。この時新しく木戸が中津川宿の両端に建てられたが、以前に常設されていたか、臨時的なものであったかは明らかでない。