家居と用水路

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享和二年(一八〇二)に中山道を下った大田南畝は、中津川宿の家居の様子を「……すべて此わたりより家居のさま よのつねならず 屋の上には 大きなる石をあげて屋根板をおさふ 寒甚しければ瓦を用ゐがたく壁の土もいて落るにや 板をもてかこめり……」(壬戌紀行)と書いている。安政四年(一八五七)九月、新町で火事があり二戸焼失した。宿役人が道中奉行と太田代官所に「火事注進状」を提出した。それによると、
 
    乍恐以書付御達奉申上候
 一 宿内板葺屋  壱軒    間口四間半    火元無高自分家
                奥行七間            新 吾
 
 一 宿内板葺屋  壱軒    間口八間     類焼七兵衛借家
                奥行六間半           銀 八
                      但 三人仕切住居 林右衛門
                                金四郎
 
  右は当九月廿八日夜九ツ過 新吾宅ゟ出火仕…(略)
  安政四年巳九月              濃州中津川宿
                            年寄 休  助
                            問屋 孫右衛門
                                    (市岡家文書)
 
 とあり、新町の西端南側にある間口四間半、八間の家が板葺であったことがわかる。
 また「濃州徇行記」より、中津川宿周辺の宿駅を見ると、「大井……皆板屋にして町巾も広く 都て旅籠屋かかりよし 大湫……左右茅屋にして 町並あしき処なり 細久手……茅のみにて 町並あしき処なり 御嵩……板屋多し 屋づくりは大体よし 伏見……茅屋ばかりにて 町並あしし」
 とどの史料も中津川宿が板葺屋であったことを書き、板葺屋の宿駅のことを徇行記は、屋づくりが良く、商売も繁昌していると言っている。それに可児郡次月(しずき)村の小栗定右衛門[千村平右衛門の家来分]の家を「構えに石壇あり 瓦屋建ならび、よき屋づくり也」と書いているが、当時は瓦屋根が特筆すべきほど珍しい存在であったに違いない。
 中津川宿においては、文化五年(一八〇八)に郷蔵が再建された時に瓦葺きになっているが、文化一〇年(一八一三)に表門蔵、天保五年(一八三四)に酒蔵が建てられといわれる間酒造の建物も、建造当時から瓦が葺かれていたかは分かっていない[棟札がある間三吉氏談]。
 中津川宿本陣は、文政八年(一八二五)に尾張徳川家の殿様が帰国する際に上段屋根の修覆願を提出するが、一部だけが認められ、葺板一〇束分銀五二匁と押木五束、葺師代などで銀七七匁を支給されている。このことは本陣は文政年間にはまだ板葺屋であったことを示している(市岡家文書)。
 明治三年(一八七〇)の茄子川村明細帳には、瓦窯二か所と書き上げられているが、「壱ヶ所当時休居候」と、休窯していた事実が報告されている。岩村領内飯沼村では、文久二年(一八六二)に築窯した記録(中津川吉村家文書)が残され、中津川の北野でも瓦が焼かれているが、この地方各地で瓦焼きが一般化されるのは、一九世紀中葉以降のことであろう。焼かれた瓦がどこでどう使用されたかは、需給の記録がなく不明である。茄子川の休窯のことから推察すると、あまり使用されなかったと考えられ、生産された屋根瓦は公的機関の建造物や神社・仏閣に優先的に使われ、この地方で民家に瓦が葺かれるのは、維新後に建築の制限が解かれてからのことである。また幕末の中津川宿絵図を見ると、ほとんどの家が間口に比べて奥行が深い町家づくりが多く、土間を通って裏庭へ通ずるようになっていた(市史・中巻別編参照)。
 「中山道分間延絵図」を見ると、中津川宿の本通りの中央を流れる用水路が描かれており、大田南畝も「壬戌紀行」の中で「中津川の駅の中をたてにさかひて小流あり」と書いている。この用水路は、現在の中津公民館前あたりから本町通りへ出て、通りに沿い南西に流れ、宿駅の中心部である問屋場(本陣・脇本陣)の前を通り御蔵小路(旧倉前町)の方へ入っている(町分地割図)。この用水は下井水(第三用水)から引水し、このほか四本に分水された用水が中山道を直角に横断しているのみならず、ところによっては町家の裏を東西に或は軒先を流れていた。
 新町には、中井水(第二用水)が字実戸(さんと)から四ツ目川を渡して引いてある。それが字花の木(現花戸町)を通ってから三・四本に分流され新町通りを直角に横切って北流している。屋並の裏では、ところによっては東西にも引きこまれ、裏庭の池の水や洗い物にも使用されたといわれている。
 淀川町、茶屋坂町では、上井水(第一用水)と淀川の水が引水してある。上井水は中津川の扇状地の扇央上部を通っており、扇央部から扇端部にかけての水田の灌漑をすると共に、上金へ引かれて上金を灌漑している。
 この三つの用水は、扇状地の落差を利用して水車を回し、精米・製粉・精麦などに利用されたといわれる。明治三年(一八七〇)には中津川村の水車二五枸が運上(税)として銀一二五匁を地頭山村甚兵衛に納めていた(明治三年村明細帳)。
 このように中津川宿の町並を何本もの水路が横断していたが、その水路脇に多くの小路(しょうじ)があって、町裏の田畑や山へ、或いは在郷へ、神社や寺へ通じていた。小路には御蔵小路、上小路、下小路、周助小路、八平小路、〓小路、新酒屋小路、扇屋小路、大阪屋小路、吉兵衛小路などの名称がついていた(市岡家文書)。
 宿場中央を流れる用水は、板葺屋根、板囲いの壁という江戸時代の宿駅の町家建築という状況を考慮すると、防火の機能を果たすことが第一の役割であったと考えられる。本町通り中央を流れる用水路脇には火伏せの神として江戸時代に盛んに信仰された秋葉大権現が祀ってあることからも推察できる。また馬の飲み水や、旅行者、継立て人足などの手足を洗う水として重宝だったと思われる。他の用水も生活用水として使われるだけでなく延焼を防ぐことを含めて、防火の役割を果たすため何本も引いたものと考えられ、用水は小路と共に中津川宿に欠くことのできない大切なものであった。