法令・禁令などを板札に墨書きし、人目につきやすい場所に掲示したものが高札であり、制札ともいい落合では御判形(はんぎょう)といっている。高札は町辻、橋詰、街道の追分、渡船場などに設置されることが多かったようである。江戸時代の高札は公儀(幕府)高札と自分(大名)高札があったが、中津川宿の高札は公儀高札であった。それは幕府が一般庶民に法令を公示する手段として建てられ、(一)簡潔な文で庶民にも理解しやすく、幕府の庶民統治上の基本姿勢の周知徹底を図る。(二)高札の違反者を厳重に罰することで、庶民に法の尊厳さを教え、幕府の権威を誇示すると共に遵法の精神の涵養を図る。(三)キリシタン、火付、鉄砲、徒党などの高札では、莫大な賞金を餌に告訴を奨励して、微弱な警察力を補充すると共に、犯人逮捕の実を上げようとするものであった(国史大辞典)。中津川宿の高札場の位置は、
・延宝三年(一六七五)の中津川宿書上では「東 町はずれ 南向」
・元禄九年(一六九六)の中津川宿道筋橋并坂書付は「中津川東町端ニ茶屋坂と申坂有此坂登り元ニ御高札場御座候」
・享和元年(一八〇一)の御分間書上帳は「東入口坂ニ御座候」
・天保期~安政期(一八三〇 一八五九)の中山道宿村大概帳は「宿東坂入口字茶屋坂ニ建有之」
と中津川宿の東はずれ、茶屋坂の登り口を高札場と書き、また文化三年(一八〇六)完成の「中山道分間延絵図」も同様であり、位置がいっそう明らかである。高札は南に面して建てられていた。
高札場の規模は、「御分間書上帳」には、「長さ弐間壱尺 巾壱間余」とあり、天保~安政期(一八三〇~一八五九)は「高さ弐間 長弐間壱尺 横壱間」となっている。元禄一五・一六年(一七〇二・三)の「高札建直シ願書」、正徳二年(一七一二)の「中津川御宿高札場建直諸事留書」の木積直(値)段、建直目録(見積書)に記載されて土台木・棟木は、いずれも長さ二間壱尺余となっており、元禄・正徳年間の高札場も、享和天保年間の規模と同様に、長さ二間壱尺余、巾が一間余で高さが二間であったと考えられる。また同書によると、土台は切石で築かれ、屋根は勿論のこと駒除けがついていた。
高札場の修築費は、領主の尾張徳川家が負担した。元禄一五年(一七〇二)一一月、材料、木挽、大工労賃、食糧費などで総額七両三分ト銭八九文の見積と建直しの願書を中津川宿問屋勘助・長右衛門名で尾張徳川家の郡奉行所に提出した。翌一六年(一七〇三)二月になって、「幕府道中奉行の通行前に再建したい」と、願書を提出すると、今回は修復ということになり、総額金三両三分、銭二七文の見積書と願書を新たに提出して許可を受けている。
高札場修復後の決算では、材木の川狩代、尾張への飛脚賃、上地奉行所(上地川並番所)への木材使用願と検査に要した諸費用がかさみ、総額金四両八四八文の支出となり、郡奉行所から支給された金三両三分、銭七二文を差引き、金一分、銭八二一文が不足となり、村入用(村会計)から補い支払いをしている。
正徳二年(一七一二)には、正徳元年の新高札に掛け替えることになった。尾張徳川家から 高札場が破損していたら 修復願書と建直し願書の二通を提出するよう触状が来た。
中津川宿では、高札場の建直し、修復ともに入札とし、またこれまでの高札場を解体した後の古木を入札販売し、建直し、修復ともに材料の木品・本数・代金の見積目録、大工・木挽・石屋の賃銀と扶持米の目録を添え、「建直候積りニ達而御願」を尾張徳川家へ提出した。その内容に、元禄一六年(一七〇三)の際 ①駒除けなどが切り下げられ見ぐるしくなった。②屋根板がひどく破損している。ことを書き強く建直しを願ったところ、建直しの許可が下りた。高札の建築費は両目録あわせて金一〇両二分、一六九文うち古木の入札で落札した三分五匁を差引した残額が支給されることになり、同年暮の一二月に下町の権兵衛が尾張に派遣され新高札を受取っている。
正徳二年(一七一二)七月二〇日、再建された高札場に新高札が掲げられ、古高札六枚[天和二年高札四枚、捨馬高札・宝永四年駄賃二割増高札]を琉球表に包み、尾張徳川家へ持参した。この高札は尾張徳川家の土蔵に納められたという。
二例の高札場建直しのように、高札場が破損した場合には、尾張徳川家が建直し、修復と共にその費用を負担した。享和元年(一八〇一)の「御分間書上帳」(市岡家文書)には「御普請 尾州ゟ被仰付候」とあり、「中山道宿村大概帳」には「是ハ尾州ゟ普請仕来」とあり、費用の負担を明確にしている。こうして建てられた高札場の中には、高札掛け柱が数本立てられ、それに一枚一枚の高札が掛けられていた。