高札

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中津川宿で記録に残っている最も古い高札の文面は、寛永一〇年(一六三三)五月のものである。高札としての記録はないが、元和二年(一六一六)の老中連署の中津川宿伝馬定書も高札であった可能性が強い。寛永一二年の高札は、
 
 一 寛永之新銭幷古銭共に金子壱両に四百貫文 勿論壱分ニハ可為壱貫文之………
 
 に始まる新銭古銭高札。寛永一四年(一六三七)の高札は、寛永一〇年(一六三三)の高札に「宿賃之事……」など一、二追加があり、寛永一九年(一六四二)の高札は、駄賃が増銭となるなど一、二の改正がなされ、高札は度々書き替えられている。
 
 中津川宿高札
              定
 一 人売買一円停止たり 若猥の輩於有之は其軽重をわかち 或ハ死罪籠舎或ハ可為過銭事
    附 口入人同罪之事
 一 男女拘置年季十年を限へし 過十年は可為曲事事
 一 手負たるものを不可隠置事
 一 御伝馬并駄賃之荷物壱駄四拾貫目事
 一 中津川ゟ落合江駄賃之儀 壱駄ニ付弐十四文 大井江四拾四文 帰馬之駄賃同前之事
    附 人足賃ハ馬の半分たるへし
 一 人馬之御朱印 伝馬次の所々において致拝見 御書付之外壱疋壱人も多不可出之事
 一 御定之外増銭を取者有之ハ三十日籠舎たるへし并其町の年寄為過料五貫文 其外は家壱軒ゟ百文宛可出之事
 一 御伝馬駄賃之儀 馬持次第ニ出之 但駄賃馬多入候時は 其町ゟ在々所々江雇 荷物遅之無之様ニ雨風の時も可出之事
 一 往還之輩 制札之面を相背 理不尽之儀申においてハ可為曲事事
    附 往還之者に非分於申懸ハ 是又可為曲事事
  右可相守此旨者也 仍執達如件
    寛永十年五月十三日           奉 行
 
 承応三年(一六五四)三月の「切利支丹制禁」の定や寛文元年(一六六一)六月の「幾里志丹制禁」の定は、「古来入用留帳」(市岡家文書)に記録されているが、これも元和の伝馬掟書と同様に本来は高札として出されたものであろう。
 天和二年(一六八二)五月には、これまでの高札にかわり、新しい高札五枚が公布され、中津川宿においては、八月一一日にかけ替えられた。天和二年(一六八二)の高札とそれ以前の高札は、Ⅵ-63表の通りであり、寛文一一年(一六七一)の「にせ薬種之高札」と「幾里支丹高札」以外は市史中巻別編に所収した。
 天和二年(一六八二)以後、元禄三年(一六九〇)五月に駄賃銭一割増高札が、宝永四年(一七〇七)七月には、駄賃銭二割増高札がかけられた。この二枚は、米大豆高値高札や増駄賃銭高札と同意のもので、添高札ともいわれ、駄賃銭の変動の度ごとにかけ替えられたものと考えられる。また「中津川宿御高札板寸覚」によれば、元禄一一年(一六九八)には、天和の高札のほかに、捨馬高札が加えられ計六枚となった(市岡家文書)。
 正徳元年(一七一一)五月には、次の六枚の高札が公布された。
 ・親子兄弟高札  ・毒薬にせ薬種高札  ・火付見出し高札  ・きり志たん宗門高札  ・人馬貫目高札
 ・人馬賃銭高札[中津川より落合・大井迄]
 これらの高札の中で、新しく発せられた高札は、火付見出し高札のみで、親子兄弟高札は天和の忠孝高札に一・二の追加がなされ、人馬賃銭高札と人馬貫目高札は、天和の御朱印伝馬高札を二つに分け理解しやすくしたものである。毒薬にせ薬種高札、きり志たん宗門高札も若干の改正がなされている。
 明和七年(一七七〇)四月には、徒党・強訴禁止の高札が追加され、寛政一〇年(一七九八)には、駄賃銭一割五分増の高札が、天保一三年(一八四二)一二月には、駄賃銭四割五分増の高札が追加された。正徳の高札六枚と明和の高札は、幕末まで替わることなく維持されたが、駄賃銭と人足賃銭は物価の上昇により、元賃銭の何割増と公示したもので、これらの高札は正徳の高札が基準となっていた。
 高札はⅥ-63表に見られるように、天和高札以前は高札が掲げられた年月が公布せられた順になっているが、天和二年(一六八二)の高札、それに代わる正徳元年(一七一一)の高札は、将軍代替り後の最初の改元のときに書き替える一代一因制が採用されてからの高札である。天和の高札は五代将軍綱吉によって布達せられ、正徳の高札は六代将軍家宣によって書き替えられた。その後正徳の高札が書き替えられなかったのは七代将軍家継が早世のため、書き替えの機会を失い、それに八代将軍吉宗は書き替えを行わず、以後の将軍は吉宗にならったためとされているが、正徳の高札は手を加える余地がなかったともいわれている(国史大辞典)。

Ⅵ-63 古来留帳に見る中津川宿の高札  (市岡家文書より)

 元禄三年(一六九〇)五月の駄賃銭一割増の高札は、「只今迠取来候駄賃銭之上に 此度壱割増之 只今迄之添高札於其宿々ニ相改書直し 追加可相立候間 此度之添高札立候…」と、道中奉行からの廻状により、各宿々で書直し立てられたが、宝永四年(一七〇七)の駄賃銭二割増の高札では、「御高札尾州江被召寄頂戴 宿継ニテ参候」と、尾張徳川家から渡されている。正徳二年(一七一二)の新高札は、「江戸ゟ御高札被為遣候ニ付 尾張ゟ御触状参候而 年寄与一右衛門参候 頂戴仕 則人足にて上海道為持罷帰候 尾州にて人足御證文もらい参候」(市岡家文書)と、宝永の駄賃銭二割増高札、それに正徳の新高札は、尾張表まで受取りに行っている。正徳の場合は、年寄与一右衛門が、尾張徳川家まで出張し、高札は小牧道-中山道と宿駅人足の継送りにて運ばれた。
 「中山道宿村大概帳」には、「高札文言左之通 墨入之儀ハ尾州ニ而取扱来」とあり 板札に高札の文言を墨で書き入れること、すなはち高札の墨入れは、領主の尾張徳川家で行われた。いずれの高札にも「右之通従公儀被仰出之間可守之者也」[寛文元年 一六六一]、「右之通従公儀被仰出候訖弥堅可守之者也」[元禄三年 一六九〇]と、尾張徳川家家老、竹腰筑後守・成瀬隼人正の奥書きがあるのは、中津川の史料から見れば、これは寛文元年(一六六一)以後のことである。