茶屋坂道の改修と宿町並の拡張

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古い中山道は茶屋坂を通っていなかった、また、中津川宿内も茶屋坂改修以前は、新町で北へ曲がり、しばらく行って東へ折れていたと言われて来た。いつ茶屋坂道ができ、宿町並が淀川町、茶屋坂へと一直線になったのか。直接の記録は残されていないが、「中川旧記」をもとに考察したい。
 幕府道中奉行 尾張徳川家への書上(報告書)による中津川宿内の町並の長さは、延宝三年(一六七五)には一〇町七間(約六六〇m)となっており、幕末まで変化していない。宿並家数は延宝三年が一八一軒、元禄一六年(一七〇三)と寛政一二年(一八〇〇)は一七五軒であり、この家数は宿の西入口である下町の西端から、東入口の茶屋坂登り口までの南北両側の家数である。このことから考えると延宝三年(一六七五)には、宿町並は茶屋坂登り口迄できており、すでに茶屋坂の付替えや宿町並の拡張はできていたと考えられる。
 寛文五年(一六六五)の「中津川町書上」によると、宿町並の長さの記録を欠くが、町家数は一七五軒を数え、これは茶屋坂登り口迄の家数と同数であることから、茶屋坂の付替え、宿町並の拡張は寛文五年以前に行われたと考えられる。中川旧記は旭ヶ丘天満宮について、次のように書いている。
 
 一 天満宮 [凡社五尺四方 社内東西三間南北五間] 新町 茶屋坂支配 寛文四年建立
   石燈籠一基 横町ゟ移ス 年号ナシ 里諺ニ元横町治郎左衛門分紺屋孫助裏勧請
   寛文三年東新町 茶屋坂町出来ニ付 今之地ヘ移ス………(略)……[傍点筆者以下同じ]
 
 この文言からは、言い伝えとして、横町の紺屋孫助裏にあった天満宮を、東新町、茶屋坂町が寛文三年にできたので現在地へ移動したことが読みとれる。現在の新町は、通常の呼び名として西新町と東新町に分けて呼ばれるが、その境目は、幕末の宿絵図では相対する町並の、半蔵[現住者未確認]と藤右衛門[現玉岩商店]の間、清蔵[現梅村書店]と海蔵(三)[現八百屋]の間を流れる用水路(井水)である。現在の行政区画でも、この用水路は十区と新町区の境界となっている。この用水路より東の東新町と茶屋坂町が、寛文三年(一六六三)にできたと言い伝えられ、このことについて「中川旧記」は、さらに次のように考察している。
 
  寛文三癸卯 東新町 茶屋町成 其巳前ハ新栄小路迄ハ町続キト見ヘル 右小路ヲ番屋小路ト云
  自身番所有タト見ヘル…
  已東ハ散在ニ家アリ、〓裏ニ十王堂有之ト云伝 宗泉寺過去帳ニ
   祖雲信女  寛永十一戌四月十九日   十王堂長助
   月桂妙海信女  寛永廿癸未十一月十九日   十王堂町藤九郎 母
 右十王堂ハ寛文三亥年中村ヘ移ス 宗泉寺持ニ而庚申堂ト唱 中央庚申 左右十王祭ル……
 茶屋坂町熊野屋裏田ニ右道之地名アリ古橋源蔵之扣田地也 其先ニ其塚トテ田ノ中ニ古塚アリ
 按ニ右之見当ニ而ハ大明神之馬道ヲ売堀ヘ上金伊勢路ヲ経テ通リタル歟 今之長坂ハ寛文三年ニ道替ヘシタリト見エル
 
 ここでの考察は、次のようである。
(1) 寛文三年(一六六三)に東新町、淀川(町)、茶屋坂(町)ができた。
(2) それ以前は、新栄小路までは西新町から町続きであったと考えられる。何故なら新栄小路を番屋小路とも言うが、番屋と言うからには自身番所があったはずで、自身番所は宿の東西の端に置かれていたから、番屋小路が中津川の東端であった。即ち番屋小路(新栄小屋)まで町並であった。
(3) 〓の裏に十王堂があった。そのあたりには長助・藤九郎らが住んでいたが、十王堂町と過去帳に書かれるほどで、寛文三年(一六六三)当時は、このあたりまで新町の町続きであった。
 〓というのは、屋号を池田屋といい久野伊兵衛家のことで、幕末の宿絵図、明治の中津川町屋敷地割図によると、現在の長瀬薬局か、その東隣であるが、その裏に十王堂があったと考えると、新栄小路は長瀬薬局西の小路と考えられる。
(4) 改修前の中山道は、新栄小路の方へ直角に曲り北進し、程なく東へ折れ茶屋坂町熊野屋[淀川町奥喜八家か]裏田、その先の其塚を通り大明神[中津川高校西の段丘崖の字名]の馬道を北進する道筋であった。
(5) 寛文三年(一六六三)に十王堂は中村へ移された。中津川宿内の道筋をまっすぐにして宿町並を東へ拡張し、東新町、淀川(町)、茶屋坂(町)をつくるため、同年十王堂を中村へ移築したと考えられる。
 寛文の中山道付替えに関しての直接的な史料がなく、「中川旧記」に拠る以外にないが、中山道が新町から北に曲っていた地点については、西新町と東新町の境である梅村書店東の用水路と小路、或はその東、農協中津川支店の東の道であるとの説もあるので付記する。
 寛文二年(一六六二)に上井水(第一用水)が完成した(中川旧記)。この用水は中津川扇央上部を通り、扇央の北部を灌漑し、更に上金を灌漑し上金新田をつくった。また、田畑に潤いをもたらしたばかりでなく、宿内拡張に伴う生活用水、防火用水を確保することができたという点でも、この用水の完成は意義深いものであり、この用水の計画は、宿町並拡張を前提としたものと考えられる。また、寛文三年(一六六三)には、中津川村の郷蔵ができている。
 「木曽故事談」によると、寛文三年(一六六三)に、中津川代官桑原勘兵衛が木曽福島より派遣されたとある。この年までは、中津川村に土着した武士である丸山久右衛門、宮川半右衛門、市岡長右衛門など数名が中津川村を二・三に分けて支配していたが、地頭山村甚兵衛が直臣を代官として派遣するようになった。年号が改った延宝年間には、中津川代官所が北野の富田[旧北恵那鉄道駅前の台地]より、旧八幡町(代官町)に移されている。
 このような推移を見てくると、寛文二、三年頃から延宝年間にかけて、第一用水の完成、茶屋坂の付替え、宿町並の拡張、郷蔵の建設などと、中津川宿にとっては画期的な変革であり、それとともに、地頭山村甚兵衛が地方支配を強めた時期とも考えられる。
 茶屋坂道付替以前の中山道で、新栄小路以東はどうなっていたか考察することにする。この旧道に関する記録はなく、町での言い伝えや「中川旧記」をもとに、再三にわたる現地調査の結果は次の通りである。
 新栄小路を北進すると、小路は東へ曲り十王堂跡を通り過ぎる。やがて現在の駅前通りに面した山品屋の北側に出る。駅前通りを横断して東海銀行の南側の道へ入ると旧妙見町である。そこを更に東へ進み、可知医院の北側の路次から旧白山町通りへ出る。消防団器具庫の北側の路次へ入ると、道はやや登り坂になるが、すぐに段丘崖下部の南北に走る道と合流する。この道は江戸時代の飛驒街道といわれ、「中川旧記」で言う大明神馬道と思われる。この道を進んで行くと、左側に扇薬師[十六区クラブ]があり古橋家の墓地の横を通り、更に北進して逢坂三昧(おおさかざんまい)(墓の意か)から段丘崖を登り、国道一九号線を横切って、中津高校北の段丘崖にとりつき東進し、中津高校の運動場と蔦勘商店の火薬庫跡の東の道、すなわち上金の伊勢街道を南進し、安江和実氏西の路次から中山道へ入る道筋が、旧道であると言われている。
 また、逢坂三昧から北東に段丘崖を登り、北野の常夜燈、庚申塔、地蔵のある東側を斜めに子野川へ下り、三段鉄橋の下あたりから子野川を渡り、東岸を川沿いに登って子野の佐伯茂氏の軒下から子野坂を通り中山道に取りつくという説もあった。北野に代官所があったこと、五輪塔や古墳が散在すること、それに地形的に見ても、遠まわりではあるが、この道の方が自然に思われる。しかし、古い中山道なのか、いわゆる伊勢道なのか明らかでない点もあるので、ここでは二説を併記して参考とし今後の考察にまつことにする。