在郷のようす

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中津川村在郷の小村の様子について、「濃州徇行記」(寛政年間)を主とし、「中山道筋道之記」(寛政元年)「壬戌紀行」(享和元年)を参考にし、書き記すことにする。
 <中村> 実戸(さんと)の南にあり、川上(かおれ)川の東岸にあって長い村である。実戸と川上村との間にあるから中村と言う。高は三六五石余で、在郷の中では、一番大きい村で、家数は四五戸、人口は二六一人、馬一〇匹。民家は東の山畔(ぐろ)に散在し、小百姓のみで、農業を主とし、冬の農閑期に副業として和紙を漉いていたという。田は川上川の東岸に多く、川に向って低くなり、棚田が多い。東の方の山畔に竹や木がよく茂っている(濃州徇行記)。中村の小庄屋は、延享元年(一七四四)には五兵衛(郷蔵壁書)、弘化二年(一八四五)と安政六年(一八五九)には成木治兵衛であった(市岡家文書 中川家文書)。
 <実戸> 中津川宿の東の方にあり、町分からやゝ隔たっている。田畑は混在し、民家は少しずつ離れて建っていた。みな小百姓ばかりであった。寛政年間の小村の石高は一四五石余、家数二三戸、人口二三〇人であった(濃州徇行記)。「佐根戸」と書いてある場合もあった(市岡家文書)。実戸の小庄屋は、延享元年平兵衛(郷蔵壁書)、弘化二年及び安政六年には次郎七であった(市岡家文書 中川家文書)。
 <上金村> 茶屋坂を東へ登ると上金(うえがね)村がある。石高六七石余の小村で、家数一八戸、人口八五人である。民家は街道の左右に散在し、小百姓ばかりである。この辺りは畠が多く、山畠である。
 上金の小庄屋は延享元年に彦作。弘化二年羽間十蔵(市岡家文書)。安政六年には菅井嘉兵衛であった(中川旧記)。
 <子野> 上金の東北にあり、中山道の左右に民戸が散在している。村高は四一石余、家数一二戸、人口五〇人である。田地には石が多い(濃州徇行記)。中山道筋では地蔵堂川と子野川の間に農家が四軒、子野川以東に農家一〇軒あり、三五沢の中津川地内に農家が一軒(落合地内に二軒)あった(中山道筋道之記)。
 この村の小庄屋は、延享元年(一七四四)に宗十がつとめ(郷蔵壁書)、弘化二年(一八四五)と安政六年(一八五九)には吉兵衛であった(市岡家文書 中川家文書)。
 <北野> 上金の北にあり、中山道より離れ木曽川寄りにある。高が八〇石余の小村で、家数一三戸、人口は六七人である。民家は散在しており、低地であるので田が多い所である(濃州徇行記)。ここから「千年木」という「朽木」を出していたというが、硅化木(けいかぼく)のことであろうか(中山道筋道之記)。
 北野の小庄屋は、延享元年(一七四四)に佐右衛門がつとめ、弘化二年(一八四五)と安政六年(一八五九)には勝野七兵衛がつとめていた(市岡家文書 中川家文書)。
 <川上> 中村の南にあり、中津川宿より約一里程離れている。川上(かおれ)川に沿って小道があり、中村との境は切通しになっている。寛政元年(一七八九)の洪水で川上川の両岸が決壊し、山から大岩が崩れ落ちた所が非常に多く、川上村へ行く道も悪くなり、雨天には谷川の水が溢れて通行ができなくなった。しかし村人や牛馬が通行して、それほど嶮阻な道ではなく、洪水後も地頭が道を修繕したので山の中腹に石をたたんだ良い道の所もできている。また川中に刎枠や石堰などの工事が施されている所も非常に多い。
 中村から一〇町ほど川に沿って行くと滝ヶ沢という集落がある。それは奥洞に瀑布があるから滝ヶ沢と呼ばれている。ここに庄屋彦十郎の家がある。その東岸を上った所に下沢集落があり、滝ヶ沢より山の腰を登る所を妻神といい、ここは平地で畠が多い。その南をモチ穴といい田の間に大石が多く、この間に民戸が散在している。このモチ穴より東の方に恵那山が見えるが、その山へ登る道に正ヶ根という集落があり、民家が八戸ほどある。モチ穴集落の南は岩村領竹腰村の前沢という集落である。川上村から沢を一筋へだてているだけである。西には村山があり、ここから岩村城下へ出るのにおよそ三里であるが山続きで険阻である。
 川上村は村高が一八石一三七の所で、家数は四〇戸、人口二三三人である。この村は、まことに幽邃(ゆうすい)の地で村人のほか役人の巡視も少ない所である。集落があるのは川上川の両岸の南北一三町ほどの間である。田圃は山崩れによって損亡し、民家も洪水の時に多く流れ、今は山の中腹に家を立てて住んでいる。村人は農業と採薪を中心にして生活をし、養蚕も少し行なっているところである。薪は中津川宿まで牛馬で運んで販売している。村高は少ないが持馬は二七匹ほどもいる。
 また川上には、中津川村の郷蔵とは別に、川上のみの郷蔵があった。「中川旧記」には、中津川村の郷蔵と年貢米の収納について述べたあと、「川上ハ別段郷蔵有ニ付除ク」と書いてある。
 川上は他の在郷の小村と異なって枝村であり、伝馬役・歩行役・夫士役等の往還役をつとめなかった。
 元禄 七年(一六九四) 「右川上村……往来御役相勤不申候……」
 元禄一五年(一七〇二) 「川上村ゟ往還役不相勤候……」(市岡家文書)
中津川宿の継立や休泊に関する夫役に川上は出役しないのが原則だった。