江戸時代の中津川宿は、中津川宿周辺の諸村のみでなく、恵那郡北部と信濃国木曽地方の商業の中心地であり、右地方と中津川以西諸地域との物資の集散地でもあった。また少なくとも近世後期には恵那山を隔てた伊那地方との交易も行われていた。前述したように「濃州徇行記」、「壬戌紀行」では一七世紀末期頃の中津川宿の商業の様子を次のように伝えている。
是(中津川宿)は豊饒なる處にて商家多く町並屋作りよし まづ穀物 塩 味噌 溜 酒 小間物 呉服物 古手 木綿 紙類 其外桧笠 篠にて編たる箱類を鬻(ひさ)ぐ 又三八の日に市立て苗木領の諸村より筳 紙 楮 木綿の類を持出ると云 総体此地の商物は苗木領へ専売つかはすと也 南の方諸村に附ては皆岩村にて調へ物をする故中津川までは不出よし……(中略)…‥ここ(上金)に於(お)六櫛とていろいろ櫛を商へり 名物なり 是は信州清内路より櫛木地此村へ買取り すき櫛に製作し 年中大体二萬二千類ほども京大坂辺へ売出し 凡金百八十両ほとも価村方へ入れる由荒増書出せり(濃州徇行記)
駅舎のさまにぎはゝし 右の方の人家に金龍山あんもち松屋といへるあり 左に菊屋といへる家ありて 楊弓など見ゆ 二八のうんどん蕎麦といへるもあり 瀬戸物の陶器多し……(中略)……右に扇屋といふありて 人参康済湯といふ薬あり 左に本家岡崎つもといへる招牌を出せり 十八屋といへる家三戸ばかり見えたり……(中略)……本家お六櫛柏屋忠兵衛といへる招牌あり これよりゆくての駅舎ごとに お六櫛をひさぐるもの多し いづれか本家といふ事をしらず……(中略)…‥(壬戌紀行)
これらの記録は当時の中津川の商業について、いろいろな点を伝えている。
まず第一は、中津川宿は、商家が多く、豊かなところで町がにぎわっているということである。米、麦、大豆などの穀物、塩、みそ、たまりなどの調味料、呉服、古手、木綿などの衣類、桧笠、櫛をはじめとする小間物や紙類のような日用品や文具、篠などで編んだ箱などの家具、瀬戸物の陶器などを商う多くの店があった。またうどん、そば屋がありあんもち屋などの茶店があり、楊弓屋まであったというのは、山深い木曽の出入口にある中津川宿が、宿泊者の多い宿駅であったという特徴をよく示している。そして享和元年(一八〇一)には「宿内酒喰其外商う諸商人 六十軒程」(御分間明細書上帳)とあり、商店が六〇軒ほどであった。さらに天保年間[一八三〇 一八四三]には、「農業之外 旅籠屋ハ旅人の休泊を請 又は食物を商ふ茶店有之 其外職人有之」(大概帳)という状況で、幕末になっても、「中津川村は(中略)中山道の宿駅にて 町家長く豊饒の商人多し」(新撰美濃志)というように、豊かな商人が多い宿場町であった。
第二に、桧笠 お六櫛のように、木曽で生産された白木製品や木曽の白木を中津川へ仕入れて加工し、その製品を京都、大坂、名古屋など西の方へ売出すことが中津川商人の仕事であった。お六櫛を売る店は、中津川から木曽へかけての宿場町毎にあったということであり、その点で中津川宿は木曽の入口であるだけに、木曽の宿駅のような景観を持っていたということである。
第三に、瀬戸物のような陶器や塩、小間物、呉服物、古手、打物(金物)が中津川の商人の手を経て、恵那郡北部や木曽地方に売られていった。