新町の商人・間家の天保一一年(一八四〇)の大福帳によると、同家は苗木領や加子母村、付知村の方へかなり多くの塩を売っている。この中津川の塩及び木曽地方の塩は、主に名古屋から下街道を通って入っていた。
「木曽谷宿村ニて相用候塩之儀 (中略)往古より第一ハ名古屋大曽根辺商人共 下海道え相廻し 陸路相運売込候ニ御座候」
「先前之通リ中津川辺えハ下海道通リ附廻候方……」(県史・近世七)。
ところが嘉永五年(一八五二)大湫宿の森川清左衛門が名古屋の諸国舟付塩問屋から直接買い入れて「木曽谷内御救塩」として下値に木曽谷へ売ることを出願するのであるが、そうすると「中津川商人共差響ニ相成候」、「中津川おゐて何かと疑惑相立可申候」を心配し、木曽谷への塩の「御締ニ付てハ中津川離れ候てハ 幾々相続方無覚束奉存候間右地羽間杢右衛門 菅井嘉兵衛 水野弥兵衛右三人之者取締方被仰付候様」と願い、「代金之儀は 先月分次月勘定ニて 私方ハ中津川より請取 谷内ハ同所え勘定之筈いたし度」と出願し認められたという(県史・近世七)。中津川の商人・羽間他二名はこの時に 木曽谷筋への塩取締を行ったのみでなく、それ以前も木曽谷への塩販売の上で力を持っていたものと解することができ、中津川の商人の手を経て木曽へ塩が入っていたと考えられる。
寛政年間、恵那郡川上(かわうえ)村地方では、「此辺の塩は中津川村又は細目の黒瀬湊より買来と也」(濃州徇行記)とあるように、塩は中津川村と細目村の黒瀬湊の二つのコースから入っていたことがわかる。