中津川周辺諸村の米価は、中津川の米価をもとにして決められていた。阿木村広岡(岩村領)でも「岩村御値段」と共に中津川米相場が使用されていたと考えられる記録がある。
文政九丙戌年
二月 米相場八斗八升ニて金壱両ト六匁五分也 中津川相場也
四月中頃 米岩村御値段 金子拾両ニ付拾六俵六分也 中津川米相場金壱両ニ付米六斗八升也(市史・中巻別編)
茄子川村でも同様である。
慶応元年
六月十二日晴天 中津川ニて米相場八斗ニ付 三両弐分ト成
六月十九日雲ル 中津川ニて米八斗ニ付 代金四両也 (市史・中巻別編)
裏木曽三か村の年貢米は金納であったが、米価は中津川相場をもとにして決定された。
三ヶ村御年貢米は置米にし(中略)翌年暮極直段にて金納す
御直段は毎春中津川宿相場吟味の上右値段に六升安、川上村直段きわめ 付知村は右川上村直段に一升高、加子母村は付知村直段に一升高…(後略)…(濃州徇行記)[傍点筆者]
中津川は、木曽の出入口にある宿場であると共に、中津川宿周辺の村々をはじめ、恵那郡北部と木曽地方を含めた地域の商業・経済の中心地であったということができる。