恵那山を隔てた信州伊那地方との商取引も行われていたようすである。伊那の中馬衆が伊那の大豆、飯田の糸荷物を中津川や西の方へ運んでいた。中津川の商人と取引することは禁じられていたが、内々に取引するものがあった。そこで安政四年(一八五七)には規定書を交わして 中馬衆と中津川商人との直接取引禁止を再確認している。これらの事から伊那との商取引はかなり行われていたものと思われる(立教大学蔵・市岡家文書)。
次の資料は、中津川宿と伊那の飯田との商業の状況をうかがい知ることのできるものの一つである。
為替金手形之事
一 金 拾六両壱分也
右之通り近江屋左兵衛殿より慥ニ請取申候間 其御地ニて無相違御渡シ可被下候 為後證之為替金手形依て如件
天保七申年正月廿日 飯田知久町 綿屋 与兵衛 印
中津川新町 十八屋杢右衛門殿 (立教大学蔵)
このように為替で決済をしているということは、中津川の一商人と飯田の一商人が偶々取引をしたというだけでなく、第三者を含めてかなり頻繁に広域な取引が行われていたことを物語るものである。